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第三十七話 継火


 骨の折れる音は、まだ耳に残っていた。

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 常夜の空へ逸れた消失の痕だけが、広場の上に残っている。

 石畳は抉れ、瓦礫は途中で途切れ、そこにあったはずの場所だけが、綺麗に失われていた。

 だが、マダイ・マドゥスが立っている後ろは何も失われていない。

 左腕は力なく垂れ、腕からは骨が抉れて飛び出していた。

 指先から血が落ちる。

 一滴、二滴。


 それでも、王は膝をつかなかった。


「マ、マダイ陛下……」


 背後の兵士が、震えた声を漏らす。


 膝をついたまま、動けない。

 目は、王の左腕に釘付けになっていた。


「う、腕から……骨が……」


 マダイはただ、静かに息を吐く。


「大丈夫だ。これぐらいすぐ直る」


 そう言って、マダイは右手を懐へ入れた。


 取り出したのは、小さな緑色の魔石だった。


 月光の下で、淡いベールが脈を打つ。生命を思わせる色。森の奥で息づく葉のような、静かな輝き。


 マダイはそれを口へ運び、呑み込んだ。


 その直後。


 左腕から嫌な音が鳴った。


 折れた骨が戻り、ずれていた関節が噛み合う。

 腕を突き破っていた骨が、少しずつ元の形へ押し戻されていく。


 兵士たちの間から、安堵の息が漏れた。


 だが、マダイの顔色は戻らない。


 左手の指はまだ震えていて、呼吸も浅い。

 額に浮いた汗が、月明かりを受けて鈍く光った。


 見た目は治った。

 それでも、戦える形に戻しただけ。


 マダイは左手の指を閉じた。


 握り込む力がほとんどない。


 その間にも、空の月は変わっていた。


 赤銅色に沈んでいた月の縁に、白が戻り始めている。


 深く沈んでいた影が、少しずつ退いていく。

 アメジマドゥスを赤く染めていた月食が、終わろうとしていた。


 あれは、マダイが好きに起こした奇跡ではない。


 天の巡りに指をかけ、ただ一度だけ、戦場へ引き下ろしたもの。


 同じ受け方は、もうできない。


 マダイは、再びヨルムンガンドへ向かう。


 その途中で、視線が一瞬だけ横へ流れる。


 アスモデウスの前に、カイルがいた。


 黒に呑まれかけたまま、それでも動いている。


(やはり、サリエルの言う通りになったか)


 マダイの口元が少し緩み、静かに呟く。


「それでも、我々が下した運命ならば

 カイル・レヴナードが歩む運命を最後まで信じようではないか。

 ノワールを背負い、この先どこへ辿り着くのかを。」

 

 マダイは視線を戻す。


 今、自分が向き合うべき相手はヨルムンガンドだ。




 

 だが、その視線も、その裁定も。


 カイルにはまるで届いていなかった。


 マダイが視線を戻した横で、黒の剣が弾かれた。


 カイルは崩れた体勢のまま、また踏み込む。


 アスモデウスは半身をずらし、躱す。


 それでも、次が来る。


「……まだ来るのか?」


 アスモデウスの笑みが、わずかに薄くなった。


 理屈でも、恐怖でも、幻術でも止まらない。


 何度いなしても、黒翼の少年はまた剣を振る。


「まったく……しつこいのぉ」


 声には段々苛立ちが滲み出る。

 

 アスモデウスが指を上げた。


 もう、遊びではない。


 殺す必要はない。

 止めればいい。


「何もできないのは、死人も同然じゃ」


 黒紫が、カイルの足元へ沈む。


 次の瞬間。


 カイルの身体が止まった。

 黒翼が止まり、握っていた剣がカイルの手から落ちる。


 カイルの目はもう、戦場を見ていない。





 カイルは、ゆっくりと目を開けた。


 どこまでも続く、深いビオレ色の海に寝ころんでいた。


 波は立っていない、風も吹いていない。


 ただ、暗い夜空。

 その空から月光が少し差し込んでいた。


 広場の轟きも、瓦礫の崩れる音も、誰かの叫びも聞こえない。


 カイルはゆっくりと身を起こした。


 濡れてもいないし、沈まない。


「……ここは?」


 声は響くが、返事はない。


 見渡す限り、海。


 見上げれば、暗い空。


 足元で、ビオレの海に静かに波紋が広がる。

 

 カイルは歩き出した。


 一歩進むたび、足元に波紋だけが広がった。

 それ以外、何も変わらない。


「……っ」


 突然、頭の奥が軋んだ。


 カイルは額を押さえ、その場に膝をつく。


 月光が歪み、海面が揺れる。

 

 次に顔を上げた時、目の前には人混みがあった。


(この石造りの壁、細い道、低く灯る明かり。どこか、見たことある景色だ。)


 その時、人混みから声が響く。


「その男は反乱に関わっている!」


 兵の前で、ひとりの住民が青ざめた顔をしていた。


「違う……俺は、何も……ご近所さんのあんたからも何か言ってくれよ!」


 その住民は、ビオレ色の髪の男に助けを求めた。


 男のそばには、少女がいる。


 少女は男の服の裾を掴み、何も言わずに周囲を見ていた。


 ビオレ色の髪の男が、一歩前へ出た。


「私は彼の普段の行動を見ているが、彼はそんな人間じゃない。」

 

 静かで、落ち着いた声に周囲の視線が男へ集まる。


 男は全く退く気はなく

 隣にいる少女の手が、男の裾を強く握っているように見えた。


 兵の一人が一歩前に出て言った。


「そこまで庇うなら、お前も同じだ!一度、ご同行願おう」

 

 男はゆっくり口を開く。


「いいだろう。私はその者の言葉を聞き、その行いを見てきた。

 見てきたものを信じる。それだけで十分だ」


 男が連れて行かれ、少女が追いかけようとする。


「お父さん……!」


 伸ばした手は届かない。


 だが、男は一度だけ振り返った。


「覚えておきなさい。我々は感情の揺れに敏感で紫の民は特殊だ。

 でも、人との繋がりは力よりも大切で、内面だけで決めてはいけない。」


 そう言って、最後は安心させるように笑っていた。


(リセリアから聞いたことがある。ビオレは人の心の揺れを感じ取ることができると。

 もしかしてこの人は、その力を使わずに人柄を信じたのか?)


 男は、それ以降帰ってこなかった。


 次の瞬間、景色が揺れ、重い扉が閉まる。


 その音だけが、長く残った。


 景色が変わる。


(ここはどこだ?)


 カイルは周りを見渡す。


「ここにいる人たちの生きる活力がない感じ、スラム街なのか?」


 すると、目の前には先程の暮らしとは一変していた少女の姿があった。


 少女は、家とはいえない場所で膝を抱え

 服は薄汚れた布に変わっており、肌には汚れが残っていた。


(まるで、ハクレインと同じような環境だ。

 僕もミリアさん拾ってもらえなかったら…)


 カイルは、その少女を見ていた。


 少女の瞳に涙がこぼれ落ちる。


「私にはあの男の揺らぎが見えていたのに。お父さんに伝えられたら…」

 

 カイルの拳に力が入る。

 

(過ぎ去った過去は後戻りできない。

 それでも、少女の父親が選んだ選択が間違っていたのか?

 人を信じることは愚かな選択なのか?)


 少女の周りに人は通るが、誰も話しかけようとしない。

 裾を掴んでいた手は、もう何も信じられないだろう。


(やっぱり、この世界は間違っている。)


 カイルは迷わず少女に手を差し伸べる。

 次の瞬間、景色が砕けた。


「……っ」


 カイルの意識が、強く引き戻される。


 伸ばしたはずの手は、何も掴んでいなかった。


 目の前には、スラムの景色も少女の姿もない。


 そこにあったのは、さっきと変わらない

 どこまでも続く海と、暗い夜空。

 そこから差し込む月光。


 何も変わっていない。けれど、さっきまでとは何かが違う。


 重く、喉の奥に絡みつくような匂い。

 甘い香りが漂っていた。


「俺は――いや、僕は、さっきまで……」


 カイルはゆっくりと顔を上げた。


「そこにいるのは誰じゃ?」


 暗がりの中で、誰かの声が響き渡る。

 月の光が、その姿を照らした。

 まず見えたのは、整った女の顔だった。


 頭には王冠。

 額の左右から、捻じれた羊の角が伸びている。

 月光を受けたその顔は、綺麗なのに、どこか人のものではなかった。


 カイルの額から汗が流れ落ちる。


「まさか…お前がアスモデウスか?」


 その名が、頭の奥に浮かんだ。


 だが、カイルの視線はすぐにその前へ落ちた。


 騎士団の装いのまま、顔を伏せ

 膝を抱え、身体を小さく丸めている。


 そこには、サラ・フューシャの姿があった。


 誰の声も届かないみたいに、暗がりの中で縮こまっている。


 さっき見た少女と、重なった。


 男の裾を掴んでいた少女。

 スラムの隅で、膝を抱えていた少女。


「サラ、さん……?」


 呼びかけても、サラは動かない。

 ただ、膝を抱えた指先だけが、わずかに強く握られていた。


 アスモデウスが、ゆっくりとこちらを向く。


 甘い香りが、月光の下で濃くなる。

 アスモデウスの口元が、細く緩んだ。


「お主がここに来るとは、予想外だったのぉ。黒を纏った人間よ」





 現実の広場で、カイルの動きが止まった。


 その瞬間、アスモデウスの笑みが戻る。


「ようやく邪魔者が消えたのぉ」


 先程までカイルへ向いていた苛立ちが、薄くほどけていく。


 アスモデウスの視線が、マダイへ流れた。


 正面にはヨルムンガンド。


 その向こうに、月下の王。


 アスモデウスは、マダイを見ていなかった。


 その場に立つ理由。

 退かない理由。

 そして、マダイの背にあるもの。


 そこまで見て、細く笑う。


「お主、王なのだな?」


 愉しげな声だった。

 だが、そこに含まれた意味は軽くない。


「なるほどのぉ。王とは面倒なものじゃ!

 守るものが多ければ多いほど、膝を折る場所も選べぬとは。」

 

 マダイは、ヨルムンガンドから視線を外さない。


「王である以上、当然だ。」


 その声に揺るぎはない。


 アスモデウスの口元が、さらに緩んだ。





「王ならば、民を見捨てられんじゃろう?」


 アスモデウスの声が、アメジマドゥスに響いた。


 指先が、横へ流れる。


 倒れた兵。

 動けずにいる民。

 逃げ遅れた者たち。


 そこへ、細い指が向いた。


 次の瞬間。


 ヨルムンガンドの瞳の色がゆっくりと変わる。


 さっきまでの深い紫の瞳が、黒紫に変わる。


 首が揺れた。

 地中に埋まっていた巨体がゆっくりと姿を現す。

 

 アスモデウスの指先に引かれるように。


 ヨルムンガンドは、もうマダイを見ていない。


 その巨体は、蛇行しながら倒れた兵と民の方へ向かう。


 アスモデウスが細く笑った。


「さて、王よ。これをどうやって守る?」


 マダイはアスモデウスの問いかけと同時に動いた。

 

 地を這い、瓦礫を押し潰し、左右へ大きく身を振る。

 首が来るのか。

 胴が流れてくるのか。

 見えた時には、もう遅い。


 マダイが民たちの前へ出て、藤色の大鎌を立てる。


 次の瞬間、巨体がぶつかる。


「くっ…!さらに力が増すのか!」

 

 戻したはずの腕に、力が入らない。

 柄を支える左手が、一瞬遅れる。

 

 大鎌の角度がわずかに崩れ、マダイの膝がわずかに沈んだ。


 それでも、マダイは押し潰されず、受け流した。


 民へ向かっていた首筋が、刃の角度に沿って横へ逸れ

 倒れた兵のすぐ横を、巨大な影が流れていく。


 そのすれ違いざま、藤色が走った。


 大鎌の刃が、ヨルムンガンドの一点を不自然に刻んだ。


 地を押さえつけていた圧が、一瞬だけ緩む。


 ただ、マダイは次の蛇行へ視線を移した。

 

 ヨルムンガンドは止まらない。


 蛇行する巨体が、今度は胴の側面から民へ流れた。


 瓦礫を砕き、石畳を削りながら、黒紫の巨体が横薙ぎに迫る。


 マダイは追う。が、左腕が遅れる。

 大鎌の柄が、手の中で滑った。


 それでも右手で押し込み、身体ごと軌道へ割り込む。


 次の瞬間、胴の側面が大鎌へぶつかった。


「ぐっ……!」


 今度は、衝撃を殺し切れない。


 受け流したはずの重さが、マダイの身体を半歩押し込んだ。


 それでも、止める。


 民へ流れていた巨体が、瓦礫の山へ逸れた。


 崩れた石壁が、轟音と共に潰れる。


 そのすれ違いざま。


 藤色が、また走った。

 大鎌の刃が、ヨルムンガンドの同じ一点へ刻む。


 鱗の奥で、藤色の線がさらに繋がる。


 黒紫の瞳が、初めて明確にマダイを捉えた。


 ヨルムンガンドが、大きく口を開いた。


 次の瞬間、巨体がマダイごと噛み砕こうと迫る。


 マダイは避けない。

 だが、左腕が遅れる。


 それでも、藤色の大鎌を牙の間へねじ込んだ。


 轟音が響き渡る。


 牙が、大鎌の柄を噛み砕こうと軋む。


「少し力を貸してもらうぞ、サリエル……!」


 次の瞬間。


 マダイの背から、月光の翼が大きく広がった。


 足場の石畳が砕ける。


 押し潰されかけていた身体が、逆にヨルムンガンドを押し返す。


 そのまま、巨体の頭部ごと宙へ浮き上がった。


「――ッ!」


 ヨルムンガンドの喉奥が震える。


 だが、その瞬間。


 マダイの手から、藤色が消えた。


 宝具が、一瞬だけ解除され、支えを失った牙が空を噛んだ。


 その隙へ藤色が再び閃き、大鎌の刃が、同じ一点へ刻まれた。


 鱗の奥で、藤色の線が繋がる。


 七芒星寸前。


 あと一角だけが、閉じていない。


 アスモデウスの指がふと止まり、笑みが消える。


 次の瞬間、指が後ろへ引かれた。


 ヨルムンガンドの巨体が、不自然にアスモデウスへ引き戻される。


 アスモデウスの視線が、マダイの狙っていた一点へ落ちた。


 そこに、藤色の刻印があった。


 傷ではない。血も流れていない。

 けれど、確かに刻まれている。


 未完成の七芒星。


「お……お主、何をしたんじゃ?」


 初めて、アスモデウスの声が揺れた。

 マダイの口元が、わずかに上がる。


「気づかれてしまったか。だが、時は作れた。」





 大鎌の刃が、静かに揺れる。

 マダイが静かに口を開いた。


月下招魂げっかしょうこん


 次の瞬間。


 マダイの背後に、二つの小さな炎が灯る。

 

 一つは淡い橙の炎。

 もう一つは黒を滲ませた深紅の炎。


 リセリアは息を呑む。


(どうして、アメジマドゥスの王に炎系統の魔法が……)


 だが、アスモデウスの瞳には、炎ではなく別の何かに見えていた。


 額の汗が、頬を伝って流れ落ちる。


「……何じゃ、それは……」


 月光に照らされた二色の人影が、マダイの背後に立っていた。


(何かがおかしい……このタイミングで援軍とは考えられん。

 奴の宝具はサリエルじゃったか。……ってことは、まさか!)


 二つの色が、マダイの翼へ流れ込む。

 

 片翼に、淡い橙。


 もう片翼に、黒を滲ませた深紅。


「今回は黄丹テリオ深紅クラージュか。

 この戦いにおいては上々とは言えん色だな」


 淡い橙を宿していた片翼から、色が抜けた。


 同時に、藤色の大鎌の刃が黄丹テリオに染まる。


「だが、やるしかない!この国のために!」


 刃先が、石畳へ向いた。


 次の瞬間。


 石畳の下で、何かが蠢く。


 割れた石畳の隙間から、土が盛り出した。


 それは倒れた兵の前に立ち上がり、動けずにいる民の前へ伸び、崩れた建物の陰まで続いていく。


 土の防壁が、戦場と民たちの間に線を引いた。


 流れ込んでいた瘴気が、壁に触れて鈍く散る。


 地を締めつける重さも、その内側ではわずかに弱まった。


 誰かが、ようやく息を吸った。


 ただ、マダイの魔法はヨルムンガンドとアスモデウスの周囲にも、影響を与えていた。


 二体を囲うように静かに細い亀裂が走る。


 最後の亀裂が石畳へ刻まれた瞬間。


 大鎌の刃から、黄丹テリオの色が抜けた。

 その色は、色を失っていた片翼へ戻る。


 入れ替わるように、もう片翼から深紅の色が抜けた。


 次は藤色の大鎌の刃が、黒を滲ませた深紅クラージュへ染まる。


 マダイの指先に、小さな火種が灯った。


 火種は、先ほど石畳へ走った亀裂のひとつに沈んだ。


 次の瞬間。


 深紅が、亀裂を走る。


 ヨルムンガンドとアスモデウスを囲う線が、一息に燃え上がった。


 黒を滲ませた炎の壁が、月下に立ち上がる。

 

 黒を滲ませた深紅が、大鎌の刃から抜け、片翼へ戻った。


 マダイは、左右の翼をわずかに開く。


 右の翼には黄丹テリオが、左の翼には黒を滲ませた深紅クラージュが宿っていた。


 その二つが、同時に揺れる。


 右の翼の淡い橙が、羽根の縁を越えて左へ滲む。


 左の翼の深紅が、黒を引きずるように右へ侵す。


 互いの翼が、互いの色を食い合っていく。


 月光の下で、左右の翼の境が歪んだ。


 黄丹テリオ深紅クラージュ


 本来なら交わらない二つの色が、マダイの両翼で混ざり始めていた。

 

 リセリアの息が止まった。


(色が……交わっている?)


 七色は混ざらない。


 白《天使》や黒《悪魔》に侵されることはある。


 だが、それは混ざることではない。


 根本の色が、別のものに侵食されているだけ。


 黄丹テリオ深紅クラージュ

 本来、交わるはずのない二色が、マダイの両翼で混ざり合っていた。


「この色を、見たことはあるか。アスモデウス」

 

 生まれたのは、黒を帯びた赤橙。


 次の瞬間。


 広場に散っていた石片が、月光へ吸い上げられた。


 砕けた石畳。

 割れた瓦礫。

 ヨルムンガンドに抉られた破片。


 それらが夜空へ昇り、やがて見えなくなる。


 そして、頭上で赤黒い火が灯った。


 マダイの視界に、戦場の配置が重なる。


 カイル、防壁、炎壁、ヨルムンガンド。


 そして、アスモデウス。


 月下の天球図が、ひとつの標的へ収束する。


 マダイは大鎌を傾けた。


 上空の石片が、軌道を得る。


 向かう先は、アスモデウス。


「アメジマドゥスに仇なす者へ、裁きを下す!」

 

 赤黒い火が、一斉に震えた。


「混色魔法――混星こんせい

 

 その言葉と共に、混色を纏った石片が、炎壁の内側へ降り注ぐ。


 空気が裂け、赤黒い閃光が広場の一角を呑んだ。


 轟音が鳴り響き、石畳が砕ける。

 炎壁の内側に爆煙が広がる。


 アスモデウスの姿は見えない。


 ヨルムンガンドの輪郭も、煙の向こうに沈んだ。


 民たちを守っていた土壁に亀裂が走り、表面の土が崩れ落ち、月光が差し込む。


「……やった、のか」


 兵の声だった。


 その一言が、崩れかけた広場に落ちる。


 煙の向こうに悪魔の姿はない。


 倒れていた兵が、震える腕で身体を起こす。


「マダイ陛下が、討った……?」


 民の中から、押し殺した泣き声が漏れた。


 張り詰めていたものが、ほんのわずかに緩む。


「陛下……」


 勝った。


 この戦いが終わった。


 声が広がりかけ、民たちの張り詰めていた気配がわずかに緩む。

  


 だが―――――その安堵はすぐに崩れ落ちた。


 ほんの一瞬、煙が割れる。


 そこにあったのは、紫色の鱗だった。


 ヨルムンガンドの胴の一部が地中からせり上がり、何かを守るように丸まっていた。


 焦げた鱗の表面に、砕けた石片が突き刺さっていた。


 丸まって壁のように立ちはだかっていた鱗が、ゆっくりと解けていく。


 その中心で、アスモデウスは傷ひとつなく立っていた。


 赤黒い煙の向こうで、アスモデウスの口元がゆっくりと吊り上がった。


「よい一撃じゃったが……王とは欲深いのぉ。

 民も、国も、何ひとつ捨てられぬか」



 アスモデウスの声が、赤黒い煙の奥で響いた。


 その直後、時間が止まったかのように戦場が動かなくなる。


 崩れ落ちる土の音も。

 民の息も。

 赤黒い煙の揺れも。


 アスモデウスが立っていた場所から、一人の女性がゆっくりと歩いてくる。


 顔には影がかかっていて、誰なのかまだ分からない。


 それでも、マダイの指がわずかに動いた。


 夜の雲が、ゆっくりと流れ

 月明かりが、女性の姿を少しずつ照らしていく。


 華奢な体に、あの歩き方。


 見たことのある髪色。


 紫黒コシュマールの髪。


 髪と同じ色を宿した瞳。


 もう二度と見るはずのなかった顔が、マダイの前で止まった。


 喉の奥が、わずかに詰まる。


「キ……キエラ」


 大鎌を握る指に、力が入った。


 伸びかけた指先が、途中で止まった。


(死者は戻らん……)


 サリエルを持つ者として、マダイはその境を知っている。


 あの夜、キエラはユアンを遺して逝った。


 それでも、目が離せなかった。


(だが、これはやつが作り出した幻術)


 マダイは、その場で足を踏み鳴らした。


 次の瞬間。


 世界に、ガラスのような亀裂が走る。


 キエラの姿が砕け、止まっていた戦場が動き出す。


 目の前に、ヨルムンガンドの喉奥が迫っていた。


 ほんの一瞬。


 マダイの判断が遅れた。


 気づいた時には、もう近すぎた。


 マダイは大鎌を上げようとする。


 だが、上がらない。


 左腕がない。


 次の瞬間、身体が左へ傾く。


 視線を落とす。


 左足も、ない。


 さっきまでそこにあったものだけが、世界から削り取られていた。


 マダイの身体が、地へ崩れた。


「――っ」

 


 赤黒い煙の向こうで、アスモデウスが笑っていた。


「付け入る隙がないと思っておったが、お主も所詮人間じゃのぉ」


 甘い声が、月下に落ちる。


「世界嚥下じゃ。ほんの一瞬じゃったな!」


 アスモデウスの声が、月下に響いた。


 石畳に落ちたマダイの背で、両翼が薄く揺れる。


 さっきまで混ざり合っていた赤橙が、月光の中でほどけていった。


 色の境が崩れる。


 黄丹テリオも、深紅クラージュも、もう形を保てない。


「陛下……?」


 誰かが呟く。


 マダイは、立ち上がらない。


 その事実だけが、広場に広がっていく。


 もう戦場を支えられない。


 黒翼を広げたカイルも動かない。


 サラの身体には、アスモデウスが立っている。


 ヨルムンガンドは、まだ動いている。


 リセリアはマダイの戦いをただ、傍観者として見ることしかできなかった。





 気づけば、足元を見ていた。


 自分の足は、まだ同じ場所にある。


 一歩も、前へ出ていない。


 その事実が、喉の奥に重く沈んだ。


 リセリアは、ゆっくりと顔を上げる。


 最初に見えたのは、カイルだった。


 カイルは、ずっと戦っていた。


 王族でもない。

 アメジマドゥスの民を背負う立場でもない。

 この国のために命を賭けなければならない理由など、どこにもなかった。


 それでも、カイルはアスモデウスへ向かっていた。


 次に、リセリアの視線はマダイへ向いた。


 石畳の上で、王が倒れている。


 今はもう立ち上がれない。

 失われた左腕と左足から、ただ静かに血が流れていた。


 それでも、マダイは最後まで、民を守ることを捨てなかった。


 王として、最後まで戦っていた。


 リセリアは、その姿をただ、見ていた。


(……私は何をしていた?王族であるはずの私は。力を持っているはずの私は。

 サラを止めたいと願っていたはずの私は。一体何をしていた?)


 その言葉が、リセリアの胸の奥に沈んだ。


 私の炎は、アメジマドゥスの民へ向かった。


 あの瞬間の恐怖が、まだ指先に残っている。


 けれど、それだけじゃない。


 サラが宝具を手にした時、巨大な蛇が現れた。

 異界から現れた、右手と左手。


 黒に呑まれたカイルでさえ、アスモデウスへ届かなかった。


 マダイ陛下でさえ、ヨルムンガンドとアスモデウスを相手に、手に負えなかった。


(その中に、自分が踏み込んで何ができる?

 私のちっぽけな炎で、何を変えられる?)

 

 勝てない。

 そう思ってしまった。


 この戦場に入れば、ただ死ぬだけだと。


 そう思うと足が竦む。


 ただ見ているだけで。私はここに立っているだけ。


(私は……そんなに、自分が大切だったの?

 目の前で人が殺されても動けない人間なの?)

 

 胸の奥が、冷たく沈んでいく。

 炎が消えるような感覚。


 傍観しているだけの人間に、この場にいる資格があるのか。


 視線が、ゆっくりと横へ流れる。


 崩れた土壁のその先に民が兵がいた。


 肩を寄せ合い、震えながら、それでも生きている。


 マダイが守ったものが、そこに残っていた。


 城でも、王冠でも、玉座でもない。


 この国にとって守るべきものは、そこにいる人間なのだと。


 崩れた土壁の跡が、何よりもはっきりと示していた。


 マダイは、最後までそれを守った。

 

 その事実が、リセリアの胸の奥で静かに形を変えていく。


 民こそが、国の宝なのだと。


(恐れている時でも。勝てない相手を前にしても。自分の力では届かないと思っても。

 国を治める者は、民の前から退いてはならない。王とは、民を守る象徴でなければならない。)


 リセリアは手を胸に当てる。


(そして王族とは、その背中を継ぐ者。お父様も……)

 

 炎朱の王として、どれだけ傷ついても、どれだけ追い込まれても、民の前に立ち続けてきた。


 それなら、自分もそうならなければならない。


(怖いままでいい。震えたままでいい。勝てる確信などなくてもいい。)


 それでも、民の前に立つ。


 胸の奥で灯った火は、まだ弱い。


 頼りなく揺れている。


 それでも、リセリアの表情は変わっていた。


 覚悟の決まった顔だった。


 リセリアは、震える足を一歩前へ出す。


 その時だった。


 ゴーン、ゴーン、と。


 天から鐘の音が鳴り響く。


 同時に、常夜の空が揺れた。


 月光でも、街灯でもない。


 何百年もの間、アメジマドゥスに届くはずのなかった光。


 夜しか知らない都へ、ひとすじの日差しが差し込んだ。

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