第三十六話 月下
城内の廊下に、足音が響いていた。
その奥で、街の悲鳴が聞こえていた。
城壁の向こうから。
広場の方角から。
一つではない。
常夜の国そのものが、泣いているようだった。
その悲鳴に急かされるように、ユアン・マドゥスは走っていた。
石造りの床を、小さな靴音が叩く。
アメジマドゥスの城で、そんな音が鳴ることはほとんどない。
騎士も、文官も、魔術師も、この国の者は皆、夜を乱さぬ歩き方を知っている。
だが、その足音は違った。
「ユアン王子! おやめください!」
その背を追う声が、廊下にぶつかった。
アメジマドゥスのギルドマスターは、息を乱しながら手を伸ばす。
「今、外に出るのは危険です! 広場はすでに戦場ですぞ!」
「止めるな!」
ユアンは振り返らなかった。
小さな肩が、月明りの差す廊下を進む。
その手には、小さなペンダントが握られていた。
細い鎖。
古びた金属の台座。
中央には、月明かりを鈍く返す小さな石が嵌め込まれている。
王族の宝飾品にしては、あまりにも質素だった。
それでもユアンは、それを両手で抱くように握りしめていた。
「私には、母上の形見のこれがある!」
その言葉に、ギルドマスターの顔色が変わった。
「そ、それは……!」
足が止まりかける。
だが、次の瞬間にはまた駆け出していた。
「なりません! マダイ陛下が、それを使ってはならぬと仰っていたはずです!」
「うるさい!」
ユアンの声が、震えていた。
泣き出しそうなほどの焦りを、必死に押し込めた声だった。
「今、父上が戦っている!民も傷ついている!それなのに私だけ、城の中で待っていろというのか!」
「ですが、王子――!」
「私は後悔したくない!」
ユアンはそこで、初めて振り返った。
幼い顔だった。
戦場を知らない目だった。
けれど、その瞳だけは逃げていなかった。
「何もできなかったと、あとで言いたくないんだ!」
ギルドマスターの手が、ユアンの肩に届く。
だが、ユアンはそれを振りほどいた。
ペンダントを胸に抱き、ユアンは廊下の先へ走る。
「ユアン王子!」
ギルドマスターは一瞬だけ奥歯を噛んだ。
止めるべきだ。
王族の血を、こんな場所へ出してはいけない。
また、悲鳴が響いた。
今度は城の壁越しにも分かるほど近い。
女の声。
子どもの泣き声。
誰かが誰かの名を呼ぶ声。
「……っ」
ギルドマスターは顔を歪めた。
そして、ユアンを追って走り出す。
◇
その直後だった。
リセリアの視線が、ふと上へ流れた。
戦場の音が途切れたわけではない。
悲鳴も、地鳴りも、黒紫に濁った空気も、まだ広場に残っている。
それでも一瞬だけ、空の方が気になった。
常夜の空に、月がある。
アメジマドゥスでは、珍しくもない。
この国の夜を、いつも同じ高さから照らしている月。
けれど、今は少し違って見えた。
「……?」
リセリアは眉を寄せる。
何かが起きている。
そう思ったが、それ以上考える時間はなかった。
広場の外から、また悲鳴が上がった。
まだ終わっていない。
リセリアは空から目を離した。
倒れた人々の腕や首筋には、黒紫の線が残っている。
空間の裂け目から伸びた右手と左手も、夜の中でまだ形を保っていた。
カイルは、止まらない。
黒翼を荒く広げ、サラの姿をしたアスモデウスへ向かおうとしている。
ヨルムンガンドは地の底で身じろぎし、マダイを見つめている。
そのすべての前に、マダイが立っている。
ただ、静かにマダイは民の肌に刻まれた黒紫の線を見ていた。
◇
常夜の空から、月明かりが落ちる。
アメジマドゥスの街路へ。
広場へ。
崩れた建物の陰へ。
悲鳴の残る路地の奥へ。
月光が、国を照らしていく。
マダイの指に嵌められた指輪が、その月光を静かに受けた。
呼吸するように、月の光を受け入れ、また夜へ返す。
リセリアは、そこで初めて見た。
マダイの背後に翼が見えた。
藤色の翼。
けれど、それは肉も骨も持たない。
地面を這った砂埃が、翼を通り抜ける。
マダイは民の肌に刻まれた線を見たまま、静かに言った。
「刻まれた罪と、生まれた欲を同列に扱うな」
その言葉に応えるように、月明かりを浴びた民の身体から、黒紫の線が引いていく。
腕から。
首筋から。
頬から。
指先から。
掴んでいた民は、指から力が抜けた。
強く抱きしめすぎていた民は、腕が震えながら緩む。
広場の悲鳴が、泣き声へ変わっていく。
月光は、空間の裂け目にも届いた。
住民を追って伸びていた右手が、ちょうど一人の肩を掴もうとしていた。
その指先が、月明かりに触れる。
ぼろ、と爪の先が崩れた。
「ア?」
短い声が、夜に落ちる。
それでも、右手は止まらない。
崩れていく指のまま、それでも住民へ届こうとする。
だが、もう一本。
さらに一本。
指が関節から粉になり、灰のように散っていく。
左手も同じだった。
倒れた民を引き寄せようとしていた掌が、月光を浴びたところから崩れ始める。
「ア、ア……?」
それでも、手は伸びる。
でも、届かない。
やがて掌が崩れ、右手が消える。
左手も、最後まで民へ向かおうとしたまま、完全に崩れ落ちた。
月明かりの下に残ったのは、灰のような粉だけだった。
広場に、一瞬だけ空白が生まれた。
「……刻まれた罪を退けるか」
ヨルムンガンドの瞳が、月下のマダイを捉えていた。
「やはり、ただの王ではないな」
称賛ではなく、警戒だった。
マダイは視線だけを、巨蛇へ戻す。
次の瞬間。
広場の下が、沈んだ。
急激に足が重くなる。
逃げようとしていた民が、その場で膝をつき、嗚咽した。
騎士の一人が魔法を組もうとして、手を止める。
指先に集まりかけていた色が、鈍く濁った。
「な、なんだ……」
誰かが息を漏らす。
空気が重い。
肺に入るはずのものが、胸の手前で詰まる。
倒れていた民の呼吸も、浅くなっていく。
マダイは足元へ視線を落とした。
石畳の上に、折れた木片が転がっている。
崩れた建物から落ちたものか。
それとも、砕けた支柱の一部か。
武器と呼べるものではない。
だが、長さだけはあった。
マダイはそれを拾い上げ
指輪が、月光を呼吸するように受け入れた。
月明かりが、マダイの指先から木片へ流れる。
ただの木材だった表面に、細い藤色の筋が走った。
その先端に、刃が生まれる。
月光と藤色が重なった、実体のない刀身。
次の瞬間、マダイが石畳を斬る。
だが、大きな音はしない。石畳も裂けない。
けれど、騎士の胸から詰まっていた息が抜けた。
民の肩が、わずかに上下する。
広場の一角だけ、重さが薄れる。
ヨルムンガンドの喉奥が鳴った。
口が開き、灰濁った霧が吐き出された。
それは地面すれすれを這い、民の方へ広がる。
騎士が盾を構えようとした。
だが、腕が上がらない。
別の騎士が魔法を組もうとして、指先の色を散らした。
マダイが大鎌を引く。
霧の進む先が曲がって、民へ向かっていた濁りが王の方へ寄る。
外套の端が、じり、と灰に染まる。
袖に触れた霧が、布の色を鈍らせていく。
それでも、マダイは眉一つ動かさない。
引き寄せた大鎌を、手元で返す。
大鎌を引いた勢いのまま、石畳を蹴った。
藤色の翼が、月明かりの中で広がりヨルムンガンドの首筋へマダイが迫る。
大鎌の刃が、巨蛇の鱗へ入った。
――ように見えた。
次の瞬間、澄んだ音が弾ける。
鱗は傷一つ、刻まれていない。
弾かれた大鎌が、月明かりの方へ跳ねる。
ヨルムンガンドの瞳が、わずかに細まる。
すかさず首が横へ振られ、巨蛇の一撃が王の身体を捉える。
マダイの身体が吹き飛び
月下を一直線に抜け、崩れた住居へ叩きつけられる。
瓦礫が崩れた。
「陛下!」
騎士達の声が上がる。
粉塵の奥で、瓦礫が滑り落ちた。
マダイは立っている。
傷はなく、外套に積もった粉だけが、肩から落ちた。
その背で、藤色の翼が開く。
ヨルムンガンドの瞳が、そちらへ向いた。
その直後。
月明かりの上から弾かれた、大鎌が巨蛇の眼へ落ちてくる。
ヨルムンガンドの首がわずかに引く。
巨体が割り込ませ、大鎌が鱗に触れる。
また弾かれる。
だが、藤色の小さな印だけが、鱗へ沈んだ。
ヨルムンガンドはマダイがいる方へ視線を向ける。
次の瞬間、巨蛇の懐で藤色が閃いた。
マダイはすでにそこにいた。
大鎌を構え、次の行動へ移っている。
同じ一点へ刃を向けていた。
狙いはさっき印が沈んだ、その一点。
二撃目。
角度を変えた刃が、同じ場所へ入る。
それでも、刀身の下部に走る藤色だけが、最初の印へ重なった。
三撃目。
マダイはさらに低く踏み込む。
大鎌の柄を短く持ち替え、同じ一点へ刃を押し込む。
さらに藤色だけが奥へ入る。
だが、そのどれもヨルムンガンドの鱗を裂くことができなかった。
ヨルムンガンドが、低く笑う。
「その刃で、我を裂くつもりか」
マダイは答えない。
翼を畳むように高度を落とし、石畳へ降りる。
その瞬間、また足元が重くなり、肺が詰まる。
ただ、同じ一点に沈んだ藤色だけが、月明かりの中に残る。
その時、ヨルムンガンドの首が、ゆっくりと沈む。
巨大な首が、地中へわずかに引き込まれていく。
広場の空気が、変わった。
騎士たちが息を呑む。
マダイは周囲を見渡す。
自分の位置。
ヨルムンガンドの口の向き。
だが、マダイは動かない。
ヨルムンガンドの口がゆっくりと開く。
マダイの視線が一瞬だけ空へ向き、動かずに大鎌を握る。
次の瞬間、口を開いたヨルムンガンドがマダイ目掛けて襲いかかった。
広場の石畳が途中で失われる。
瓦礫の輪郭も、道の端も、口へ近づいた場所から消えていく。
場所そのものが、呑まれている。
マダイは大鎌を立て、衝突した。
石畳が砕け、マダイの足が後ろへ滑る。
一歩。
二歩。
大鎌の月光の刃が軋み
木の柄が、マダイの手の中で悲鳴を上げる。
少しずつ、そして確実に後退し続ける。
それでも、王は退けない理由がある。
背後には、動けない民達。
盾を構えたまま膝をつき、動けない兵達。
そして、この先には罪から解放されて、安堵しているはずの民達。
だが、押され続けたマダイはついに、民たちの前まで到達してしまう。
「陛下……」
兵士の一人が震えた声を絞り出す。
「陛下。お下がりください…我々の命など替えがききます!そんな命よりあなた様の命を――!」
マダイは振り向かず、大鎌を支えたまま、口を開く。
「案ずるな。私はこの国の王だ」
その声は、押し潰される広場の中でも折れなかった。
「私はこの国が好きだ。城内にいても、民達が笑い合う声。兵の雑談する声。
それらの安泰と安全を守るのが王だ。そんな、平穏な国こそがアメジマドゥスだ!」
兵士たちの顔には自然と涙が溢れる。
マダイは、わずかに空を見た。
常夜の月は、もう白く光っていない。
月面が赤銅色へ沈み、残っていた細い光も完全に消える。
皆既月食。
指輪が赤銅色の月光を吸い込み、藤色の翼が深く広がる。
大鎌の刃に、赤銅色の影が重なった。
マダイがヨルムンガンドを押し返す。
石畳を削っていた足が、止まりかける。
だが、ヨルムンガンドの勢いはまだ死なない。
マダイの目が細くなり、大鎌の角度が変わる。
正面ではなく、上へ。
空間を削っていた口が、刃に沿って跳ね上がる。
民と兵へ向かっていた消失が、常夜の空へ逸れた。
民も、兵も、無傷で済んだ。
だが、その代わりに骨の折れる音が、月下に響いた。
マダイの左腕からは血が滴る。
折れた骨が腕から飛び出していた。




