第三十五話 深淵
右手と左手は、もう住民の方へ散っていた。
逃げる背中を追うように石畳を抉り、瓦礫を跳ね上げ、広場の端で悲鳴が重なる。
リセリアは剣を握ったまま、息を呑む。
踏み込めない。
そうしている間にも、カイルの足元で黒が揺れた。
次の瞬間、姿が消える。
サラの正面にいたはずだった。
なのに、もういない。
次の瞬間、サラの背後で黒が噴いた。
カイルはもう剣を振り上げている。
サラが振り向く前に黒の剣が振り下ろされる。
カンッ、と。
乾いた音が夜気を打った。
その瞬間、サラの宝具が跳ね上がっていた。
振り向きざまでもない。
背後へ振り下ろされた刃に対して、片手で握った宝具を短く振り上げられていた。
ただそれだけの動きで、カイルの剣先を下から打ち払った。
黒い剣が軌道ごと跳ね上がり、カイルの腕が持っていかれる。
剣だけが上空に弾きだされ、カイルの体勢が仰け反る。
サラの肩がわずかに開く。
「単調な攻撃じゃな」
静かな声だった。
サラはカイルの方向へ一歩進み、腹部へ宝具を当てる。
接触した一点に、黒紫の魔法陣が開く。
大きくはない。
腹を覆う程度の、薄い円陣。
その一連の流れがあまりにも滑らかな動きだった。
魔法陣から小さな球体が現れ、カイルに触れる。
次の瞬間、破裂音は遅れて響いた。
石畳に半球状の陥没が残る。
「ほう、これを避けるとはすばしっこいのぉ」
その声が落ちた時には、もうカイルはそこにいなかった。
半球状に抉れた石畳の縁、その外へ滑るように逃れている。
弾き上げられた黒い剣は、そのまま軌道を変えずに落ちる。
次の瞬間、カイルが地を蹴る。
上を見るより先に、落ちて来る剣の柄頭を真横から蹴り抜いた。
黒を纏った刃が向きを変え、切っ先がサラへ向かう。
カイルの剣が完璧にサラを捉えた。
そう思った時には、サラはすでに上空にいた。
広場を見下ろす位置で、静かに浮いている。
まるで最初から、そこが自分の居場所だったみたいに。
カイルが放った剣は石畳の奥までねじ込むみたいに深く、突き刺さる。
突き立った黒の剣を中心にして、広場そのものへ巨大な裂け目が四方へ広がっていく。
バキ、バキバキッ――
割れた床が跳ね、重なった破砕音が噴き上がった。
砕けた石がまだ跳ねている中、カイルだけは何も変わらないみたいに
地面の中心に突き立った黒の剣へ向かってゆっくりと歩き出した。
足を運ぶたびに、靴底の下で黒が揺れる。
肩からも、背からも、噴き出した黒が未だ垂れ流れている。
カイルは裂け目の中心へ辿り着き、突き刺さった剣へ、手を伸ばし柄を握る。
その瞬間、カイルの体に入ったヒビから黒がさらに漏れ出し、そのまま剣を伝って流れ込んでいく。
細く割れた罅の筋へ入り込み、そこでまた分かれ、別の裂け目へ潜り込む。
そうして地の奥を這うたびに、割れた石畳の輪郭が黒く浮き上がっていき、線が増えていく。
枝分かれして、噛み合って、また別の裂け目へ繋がっていく。
黒い霧が巨大な裂け目を満たすように蔓延し、やがて黒が全ての裂け目から溢れ出した。
裂け目を這っていた黒が、今度は地を離れる。
広場に描かれた異形の紋様が、そのまま浮き上がるみたいに、黒の魔法陣がカイルの頭上へ浮かび上がった。
それは、どこか魔法を使う時に現れる魔法陣に似ていた。
けれど、あれは違う。
円の縁にルーン文字もない。
それでも中心には七芒星に似た形が浮かんでいる。
ただし、それはリセリアの知る七芒星ではない。
上下が反転している。
七色の理で組まれる魔法とは、明らかに違う。
あれは――黒の魔法陣。
「……その紋章を、また見るときが来るとはのぉ」
上空から、サラの声が落ちた。
リセリアは息を呑む。
(また二人が衝突する。
サラが動けば、カイルが動けば、別の何かが壊れる
二人が衝突するたびに被害だけが広がっていく。まさに災害。)
その中心で、カイルは剣を握ったまま動かない。
口元だけが、ゆっくりと開く。
「……黒竜」
その言葉を聞いた瞬間ゾッ、とリセリアの背筋が凍る。
魔法陣めいた紋様に向かって、黒が一斉に収束していく。
一本の濁流みたいに。
巨大な黒の奔流が、広場の中心から空へ突き抜け、裂けるように広がった黒が徐々に形を持ち
頭部が生まれ、長く反った首が伸びる。
噴き上がった黒の外縁から、角みたいな突起が突き出し、胴がうねり、爪を思わせる影が滲み出る。
黒そのものが輪郭だけを獲得して、竜の形へ近づいていく。
あれは昇り竜。
黒は天へ伸びながら、そのまま上空へ突き進み
天へ突き上がった黒が、そのままサラへ喰らいつく。
サラの輪郭が、ふっと揺れた。
黒竜の牙が届いたはずの位置で、上空のサラが黒紫の残像みたいにほどけていく。
上空に浮いていると見えていたあの姿そのものが、最初から認識ごとずらされていた。
黒竜は喰らいつくはずだった相手を失ったまま、上空を食い破るように黒を撒き散らし、消えていく。
上空で、サラの姿をした悪魔が静かに佇んでいる。
黒紫の残像を引いたまま、何事もなかったみたいに広場を見下ろしていた。
夜の高みでサラの指先がゆっくりと持ち上がり、上空に浮かぶその姿を中心にして空気が変わる。
黒紫の気配が薄く広がり、雲の中で轟音が鳴り響き
空に光の細い筋が走って、幾重にも枝分かれしながら広がっていく。
リセリアははっと顔を上げた。
「――っ」
何かがくる。
そう思った時には、もう遅かった。
黄色い落雷が、広場へ何本も降り注ぐ。
無数の雷光が、裂けた石畳の上へ、崩れた建物の際へ、逃げ惑う住民たちの頭上へ、ほとんど同時に降り注ぐ。
耳を裂くような轟きが重なる。
広場だけではなく、その向こうでも光が走る。
視界の外からも悲鳴が上がる。
サラは黒竜をいなして終わりじゃなかった。
今度は自分から、広場そのものを呑み込むように攻撃を広げてきた。
けれど、リセリアは違和感に気づいた。
落雷は、たしかに落ちたはずだった。
あれだけの光が走って、あれだけの轟きが重なった。
石畳へ、崩れた建物の際へ、逃げ惑う住民たちの頭上へ。
何本もの黄色い雷が、この広場へ降り注いだ。
それなのに――壊れていない。
リセリアの目が見開く。
裂けた石畳は、そのままだった。
新しく砕けた跡がない。
崩れた壁にも、焦げ跡は増えていない。
瓦礫も跳ねていない。
地面も抉れていない。
落雷が落ちたなら、こんなはずがない。
耳に残る轟音だけがやけに本物で、目の前の光景だけがその結果を拒んでいた。
「……なんで」
建物にも地面にも、物理的な被害がどこにも残っていない。
それだけじゃない。
リセリアの背筋に、もう一つ別の違和感が走る。
サラが扱う黄色い雷。
それは、本来なら「黄」の力。
でも、サラは違う。
今は黒紫に呑まれていても、サラの根は「紫」だ。
サラが落雷を扱えるはずがない。
そう思った時には、もう遅かった。
雷を受けた住民の肩が、ビクッと跳ねる。
けれど、焼け焦げていない。
次の瞬間だった。
落雷に撃たれた住民の身へ、黒紫の線が走る。
首、頬、胸元、腕へ。
黒紫の線が、皮膚の上を這うようにじわり、じわりと広がっていく。
「……あれ、痛く、ない?当たった、はず……」
女は自分の腕を見る。
焦げてもいない。
血も出ていない。
安堵しかけた、その瞬間。
黒紫の線が、腕の内側でじわりと脈打った。
女の身体が、ゆっくりと隣へ傾く。
「来ないで……ちが、う……」
口ではそう言うのに、身体は止まらない。
距離を詰め、女の両手が男の顔を掴んだ。
「――っ、お、おい!?」
男は掴まれた両手を振り解こうとする。
けれど女の手は離れない。
引き寄せるように頬へ食い込み、爪の先が皮膚へ刺さる。
傷を裂くほどじゃない。
それでも、力加減の壊れたその手つきは、ただの混乱ではなかった。
別の場所では、母親が幼い子を抱き寄せていた。
落雷から守ろうとしているように見えた。
「行かないで……行かないで……っ」
掠れた声で何度もそう繰り返しながら、腕に込める力だけが強くなっていく。
子どもが苦しそうに身をよじる。
それでも、離さない。
悲鳴は、広場の中だけじゃなかった。
黄色い落雷が降り注いだ直後、広場の外からも声が上がる。
一つや二つじゃない。
路地の奥。崩れた建物の向こう。
視界では届かない広場の先から、重なるように悲鳴が返ってくる。
「――ぁ、やめ、ろ……!」
「来るな、来るなって……!」
「痛い!離して……っ、離してよ!」
聞こえてくるのは、雷に焼かれた悲鳴じゃない。
拒んでいるのに距離を詰められた声。
離れようとしているのに、離れられない声。
場違いの声があちこちから聞こえてくる。
リセリアの喉が詰まる。
広場の外でも、ここと同じことが起きている。
落雷は、この場だけで終わっていない。
人が人を破壊している。
見た目だけの落雷が、広場の外にも降り注いでいて、それが悲鳴だけで伝わってきた。
黄色い落雷は、カイルの頭上にも落ちていた。
閃光がその身を呑み込み、轟きが遅れて追いつく。
一瞬、カイルから目を逸らそうとする。
だが、ここで目を離したら本当に戻れなくなる気がして、リセリアは視線を外せなかった。
「カイル……」
落雷が落ちているのにカイルは止まらない。
顔も上げない。
それが本物の雷なのか、幻術なのか。
今見えているものが本当にそこにあるのか?
そんなことは、多分考えていない。
肩を揺らし、黒を垂れ流したまま、カイルはそのままサラがいる所まで歩み続ける。
ただ、真っ直ぐに。
その在り方そのものが、ひどく不気味だった。
けれど、次の瞬間。
カイルの視線が、初めて上を向いた。
上空に留まっているサラを一点に見ていた。
騎士団のマントを波打たせたまま、サラは余裕の笑みをこぼしている。
「うむ。よい眺めじゃ!これが待ち望んでいた景色じゃが…お主はまだ止まらぬか。」
上空から、サラの声が落ちる。
カイルがサラの近くで止まった時。
ただ、右手を上へ向けて差し出した。
そして、そのまま手首を上を下へひっくり返す。
次の瞬間。
サラの背で波打っていたマントが、ぴたりと止まった。
風が死んだみたいに、布の流れが途切れる。
「――っ」
初めて、サラの声が揺れた。
浮遊が乱れ、持ちこたえるように肩が動く。
けれど、一度失った均衡は戻らない。
上にあることを許されなくなったみたいに、サラの身体がそのまま高度を失っていく。
黒紫の残像を引いたまま、上空から地上へ真っ直ぐに落ちる。
裂けた広場の一角、巨体の影が落ちるその近くへ、サラの身体が鋭く着地する。
騎士団のマントが遅れて広がる。
だが、もう浮きはしない。
けれど、サラはすぐに立ち上がる。
土煙の中で、サラの姿をした悪魔は何事もなかったみたいに顔を上げた。
その視線の先には、ヨルムンガンドがいる。
巨体の影を見上げながら、アスモデウスは口元だけをわずかに緩めた。
「ヨルムンよ、お主の相手は随分と楽そうじゃな?」
その声には何の隔たりもなく
ただ、古いもの同士が戦場の最中にふと交わす軽口みたいな響きだった。
だが、ヨルムンガンドは一息でそれを断ち切った。
「喋りかけるな、悪魔。さっさと契約者から離れろ」
言葉数は少ないけれど、鋭い声だった。
その短さの中に嫌悪がはっきりと滲んでいた。
アスモデウスへ向ける視線には、敵意しかない。
ヨルムンガンドにとって、サラの身体は自分の契約者だった。
だからこそ、その中に居座る悪魔を許していない。
古い存在同士で、中にいる悪魔との格は同等。
それでも、相容れない。
その一言だけで、それが分かった。
サラの姿をした悪魔は肩をすくめるように、わずかに口元を緩めた。
「そういうな。相手を――」
悪魔の前に黒が走る。
「――っと、危ない」
軽い声のまま、身体を少しよじる。
ただ、黒を纏った刃が鼻先を裂いて通り過ぎた。
リセリアの目が追いつかない。
会話の途中だろうと関係ない。
それでもアスモデウスは、まだ余裕を失っていない。
避けながら、会話も止めていない。
戦闘と応酬が、同じ流れの中で続いていた。
サラの姿をした悪魔は、鼻先を裂いて通り過ぎた黒の軌道を一瞥し、それからヨルムンガンドへ視線を戻した。
「相手を交換せんか?」
まるで思いつきを口にするみたいな軽さだった。
次の瞬間、またカイルの黒が走る。
けれど悪魔は身軽に躱す。
「人間相手の方が、まだ楽しそうじゃ」
戦場のど真ん中で交わすには、あまりにも気の抜けた声だった。
けれど、そこに油断はない。
カイルの一撃を脅威として受け止めた上で、それでもなお軽口を挟めるだけの余裕がある。
ヨルムンガンドの向こうにいる王を、あくまで“人間”として見ている。
理性のない化け物と戦うより人間相手の方が楽そうだ。
その程度にしか、まだ思っていない。
ヨルムンガンドの双眸が、細くなる。
次の瞬間、鼻で笑うような低い息が漏れた。
「封印されて老いたようだな?アスモデウス。別に変ってやってもいいが、我の相手をよく見てから言うがよい」
怒りでも拒絶でもなかった。
ただ、見誤っている相手を冷たく忠告するような声だった。
アスモデウスの口元から、わずかな笑みが消える。
初めて、その視線がヨルムンガンドの向こう側へ流れた。
そこにいる相手を、今までまともに見ていなかったのだと分かる動きだった。
マダイへ視線が向く。
戦場の空気が、そこで一段、静かに張り詰めた。
アスモデウスは、初めてその相手をまともに見た。
ほんの一瞬だった。
けれど、その目がわずかに見開かれる。
軽口の余熱みたいに残っていた余裕が、そこで初めて揺れた。
「……ほう」
小さく漏れた声は、さっきまでとは少し違っていた。
茶化す空気が薄れ、その視線がマダイをなぞる。
立ち方、纏う気配。
ヨルムンガンドと向き合いながら、なお崩れない在り方。
そこでようやく、気づいたのだと分かる。
「ヨルムンガンドと戦っているお主、ただの人間ではないな?」
問いかける声は、今度ははっきりとマダイへ向いていた。
「その気配……天使の宝具か?
そして、何かに気づいたかのようにアスモデウスの瞳が細まる。
「それも、上位天使」
マダイは答えず、
ヨルムンガンドと向き合ったまま、視線だけをわずかにアスモデウスへ向ける。
その一瞬で十分だった。
「貴様が、サラ・フューシャを乗っ取っている張本人か。」
マダイもまた、相手の正体を見抜いている。
二人は互いの本質を見抜いている。
リセリアは息を止めた。
今までとは違う。
ここから先は、もう一段、戦場の格が変わる。




