第三十四話 厄災
何も、変わらない。
カイルもリセリアも。
前に出られないまま、目の前の光景を見ることしかできなかった。
右手の目は、止まった。
置き去りにされた住民が、まだ瓦礫の下で必死に足搔く。
右手は、瓦礫の中で踠いていた一人の住民を、ゆっくりと掴み上げた。
「ま、待ってくれ……」
住民が声をひきつらせる。
次の瞬間、悲鳴が上がった。
「ぎ、ぁあああああっ!!」
掴まれた肩口から、色が抜ける。
血が噴くんでも、傷がついている訳でもない。
生き物の内側にあった瑞々しさだけが、触れられたところから急速に失われていく。
皮膚が痩せ、肉がしぼむ。
目に残っていた光が、喉の悲鳴より先に消えていく。
髪が色褪せ、頬が落ち、指先が朽ち、最後には人の形そのものが保てなくなった。
悲鳴が途切れ残ったのは、崩れた影みたいな塊だけだった。
その沈黙のど真ん中で、右手の掌がひくりと震えた。
誰かが息を呑む。
次の瞬間、掌の中央が横に裂けた。
歯列は揃っていない口が現れた。
人のものみたいに見えるのに、人の口の形からどこか外れている。
裂けたままの口角が、引きつるように吊り上がった。
「アハ!」
笑い声だけが広場に落ちた。
「アハ、アハハ!」
誰かが悲鳴を上げるより先に、広場の空気が静まる。
あれ自身が、見て、選んで、楽しんでいる。
そう分かっている笑い方だった。
―――――
その光景を見て秩序が崩れていく。
「……どいて」
女の声だった。
震えているのに、その手はためらわなかった。目の前の肩を押しのけ、子を抱えたまま前へ出ようとする。
「私が先……! この子がいるのよ!」
押された男がよろける。
「ふざけるな、俺だって死ねるかよ!」
「わ、わしはまだ……こんなところで終わらん……!」
「どけ! 俺が先だ!」
声がぶつかる。
隅で男の子は泣いて座り込んでいるのに、住人の誰も振り返りもしない。
倒れた誰かを呼んでいた若者は、その名を途中で呑み込んで広場の端へ駆け出す。
生きたい。
みっともなくてもいい。
誰かを置いてでもいい。
今、自分だけは終わりたくない。
その剥き出しの感情が、広場をさらに醜く掻き回していく。
カイルは、それを見ていた。
その光景が、胸の奥を深く刺す。
「――ぁ……っ」
喉の奥から、声が漏れる。
右手に掴まれ朽ちた住民、右手の掌の笑った光景。
広場の人間たちは、怒りでも悲しみでもなく、ただ醜く生きる為の光景。
胸の奥で、何かが焼き切れる。
「が、ぁ……ッ!」
苦し紛れの叫びだった。
内側に押し込められていた黒が、堰を切ったみたいに溢れ出す。
最初に変わったのは、目だった。
元々赤かった瞳が、滲むように広がる。
白かったはずの部分まで赤に侵され、瞳と結膜の境界が消えていく。
次の瞬間、その真っ赤な眼の中心を、黒い瞳孔が細く縦に裂いた。
あれはもう、人の目じゃない。
次は半端に止まっていた角が動いた。
額の片側から突き出ていた黒い角。
未完成のまま途切れていたその先が前へ伸びる。
「――っ、ぁ……!」
抑え込まれていた先端が、続きを思い出したみたいに鋭く、重く、伸びていく。
そこで初めて、一本の角になった。
―――その直後、カイルの体から何かが割れるような音がした。
音は一つではなかった。
下から這い上がってきた亀裂が、そのまま首へ、頬へ繋がっていく。
「――ッ!」
細く走ったヒビの隙間から黒い霧が、じわり、じわりと滲み出る。
黒の浸食は、肌の上だけで止まらなかった。
首元の高い長袖が、色を失う。
袖口が裂け、裾が解ける。
肩口の擦れた跡も、補修の糸も、細い革ベルトの下で揺れていた短い腰布も、全部まとめて黒に呑まれていく。
ミリアから受け取ったコートも無事ではいられなかった。
裂けて、千切れコートの至る所に穴が開き、ボロボロになり、藍色の裏生地も黒色に変わっていく。
裂けた布端は黒い霧と混ざり、影の切れ端みたいに揺れ続ける。
腰布も同じだった。布と煙の境目が曖昧になり、細く、長く、尾を引くように靡いていく。
着ていたものが、カイルの異変に耐えきれず黒に侵されていった。
質素で、貧しくて、雪国で長く着古された実用品だったはずの服が、いつの間にか別の何かへ変わっていく。
黒に染まりきったその姿は、まるで最初から“こうなるための服”だったみたいに、異様な完成を帯びていた。
―――――――――――
そして次の瞬間、背中の翼が脈打った。
四枚だったはずの翼のあいだから、さらに二枚、無理やり押し出されるように伸びる。
六枚の黒い翼の羽根の部分が枯れたように散っていく。
張っていた黒が急に力を失ったみたいに痩せ、残ったのは翼を支える骨格だけだった。
全身のヒビから漏れ出していた黒い霧が裂けた袖口から。ほどけた裾から。腰布の端から。
溢れた黒が、剥き出しになった翼の骨へ纏わりついた。
羽根ではなく、黒霧そのものが骨の間を埋めるように広がっていく。
揺れても、裂けても、なお翼は形を失わない。
壊れた翼を、黒が無理やり繋ぎ止めていた。
「……カ、イル……」
リセリアの喉から、ようやく声が漏れた。
呼びかけだった。
けれど、カイルは答えない。
聞こえていても、もう届いていないのか。
赤く裂けた瞳は、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
右手でもない。
左手でもない。
黒紫を纏って立つサラだけを、射抜くように見据えている。
その横顔には、もうさっきまでの迷いがなかった。
前に出れば、また傷つける。
そうやって止まっていたはずなのに、今そこにあるのは、ただ何かを殺しに行くためだけの顔だった。
リセリアの背筋が冷える。
次の瞬間、カイルが消えた。
地を蹴ったのか、翼で裂いたのか、見分ける間もない。
黒だけが一直線に走る。
狙いは最初から、サラだった。
赤く裂けた瞳は揺らがない。
迷いもなく、ただ黒紫を纏って立つその中心へ、真っ直ぐ斬り込んでいく。
「――ッ!」
リセリアが息を呑む。
速すぎた。
もう届く。
そう見えた、その瞬間だった。
右手と左手が、同時にカイルの前へ現れた。
最初からそこにいたみたいに、ピタリと斬線の上へ入り込む。
掌が開く。
裂けた口を隠したまま、二つの掌が正面から黒の刃を受け止めた。
カイルの剣には、黒が纏わりついていた。
剣そのものが、黒を引きずっている。
その黒が、左手へ触れた瞬間――
「アハハ! アハ!」
左手が笑った。
掌の裂け目がぐしゃりと歪み、無邪気みたいな声を弾ませる。
生命のない物へ触れた。
だから、崩せる。
そう言わんばかりの笑い方だった。
だが、その笑いが急に止まる。
口が、歪んだまま固まった。
次の瞬間。
左手の指が一本、遅れて地に落ちた。
切断面がずれて開き、左手の掌がわずかに引きつる。
「……ア?」
崩れるはずだった。
なのに、逆に指を削られた。
「死ねよ。異界のゴミが。」
カイルが低く、掠れた声で吐き捨てる。
落ちたその一言に、カイルの気配は残っていない。
次の瞬間、切り落とされた断面が黒く燃え上がった。
黒い焔が、火柱のように噴き上がる。
夜そのものが燃え上がったみたいな、濁った“黒焔”だった。
左手の断面を舐めるように燃え広がり、裂けた掌の口が引きつる。
だが、次の瞬間。
初めてサラが動き出した。
一歩前へ出て、握られた宝具が、黒焔の上を横切った。
ただ、それだけだった。
黒紫が掠めた、その瞬間――燃え上がっていた黒焔が、ふっと音もなく消えた。
左手の断面に残っていた熱も、揺れていた火の名残も、何もかもが一息で奪われた。
それを消したのは、サラだった。
いや――あの中にいる、別の何かだった。
左手の目が、ギョロリと揺れる。
白かったはずの部分に、じわりと赤が滲んだ。
明らかに怒っている。
そう分かる変わり方だった。
だが、その左手が次に動くより早く、サラの唇が開いた。
「そう怒るでない」
静かで、やわらかい響きなのに、耳に触れた瞬間ぞくりとする。
サラの口から出ているのに、サラ本人が喋っているようには聞こえない。
「お前たちは、お前たちの役目を果たせばよい」
諭すような声音だった。
叱るでもなく、命じるでもなく。
その言葉に、右手と左手がほんの一瞬だけ止まる。
次の瞬間には、二つの異形は揃って住民達の方へ向き直っていた。
言われた通りに動いた。
そこに迷いはなかった。
右手が、また生きている者の方へ。
左手が、また足場と逃げ場の方へ。
「……っ」
リセリアの喉が詰まる。
(また、あれが住民の方に行く。
力ある私が守らないといけない。)
頭では分かっているのに、足が出ない。
ここで飛び込めば、また傷つけるかもしれない。
けれど、飛び込まなければ、今度こそ誰かが終わる。
そのどちらも現実だった。
剣を握る手に力が入るが、それでも動けない。
その時だった。
サラの唇が、ゆっくりと開いた。
リセリアの肩が跳ねる。
動いているのは確かにサラの口元なのに、一度聞いたことがあるがサラの声色ではない。
その違和感は一瞬で分かった。
柔らかく、静かで、どこか慈しむみたいな響きすらある。
まるで、今そこに立っているサラの中へ、別の何かがそのまま居座って喋っているみたいだった。
「純粋のノワールを見るのは久しぶり。」
その声は、真っ直ぐカイルへ向けられていた。
住民でも、リセリアでもない。
カイルは返さない。
サラの――いや、その中にいる何かの声だけが、静かに続く。
「……いや、違うな」
細められた黒紫の瞳が、カイルの目を見た。
「お主、純粋なノワールではないな?」
そこで初めて、声にわずかな含みが混じる。
観察している。そんな気配だった。
それでも、その言葉だけが広場の中心へ釘みたいに打ち込まれた。
「小娘が言っていたのは、お主のことだったか。」
リセリアの喉がひくりと鳴る。
誰のことを言っているのか。
何の話をしているのか。
分からない。
「ああ。お主も、宝具に飲まれておるんじゃったな」
哀れむようにただ、カイルを眺めているが、ひどく落ち着いている。
そんな姿を見たリセリアの瞳にはこれまで一緒に旅をしてきたカイルの姿は映っていなかった。




