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第三十三話 魔手

 静まり返った、とは違った。


 広場に音がないわけじゃない。

 崩れた石の上を誰かが踏み外す音も、遠くで燃え残った木が爆ぜる音も、泣き声も、まだ消えてはいない。


 それでも――その場にいた誰もが、一度だけ呼吸の仕方を忘れた。


 王がいた。


 その先には、大地を裂いて現れた紫の巨体があった。

 魔物、と呼ぶにはあまりにも違いすぎる。あれほど巨大でありながら、ただ大きいだけではない何か。

 地中から覗く鱗の一枚ごとに、広場そのものの形が書き換わってしまったような錯覚がある。


 灰の外套をまとった異形もいた。

 割れた仮面の奥から覗く黒い瞳。角。尾。人の形を保っているのに、人として見てはいけないと本能が拒むもの。


 その近くには、黒い翼を持つ青年がいた。

 助けたはずの側に立っている。味方でなければならない位置にいる。

 そう頭では分かるのに――視界がその色を受け入れきれない。


 さらに、その少し向こう。

 黒でも灰でもない、けれど紫とも呼び切れない色を纏って、サラが地上へ降り立っていた。


 知っている言葉では、何ひとつ足りなかった。


 誰もすぐには叫べなかった。


 悲鳴は遅れて来る。

 恐怖は、もっと遅い。

 最初に広がったのは、沈黙に近い空白だった。


 リセリアは、そんな広場の空気とは別のところに目を奪われていた。


 カイルの背。


 黒い翼が、四枚。


 月も灯りもないのに、そこだけ輪郭がはっきりして見える。以前、カイルは言っていた。

 自分の翼は四枚ある、と。あの時の自分には二枚にしか見えなかった。けれど今は、違う。


(……今は、四枚)


 喉の奥が、ひどく乾く。

 問いただす余裕はなかった。問いただしていい状況でもなかった。


 その静けさを、最初に壊したのは、悲鳴ではなかった。


「……返せよ」


 かすれた声だった。


 広場の端。崩れた石壁の陰で、膝をついていた男が、両手を震わせながら立ち上がっていた。

 煤と血で顔が汚れている。視線の先が誰を見ているのか、自分でも定まっていないような目だった。


「返せよ……」


 もう一度、同じ言葉が落ちる。


「お前たちが来たから……!」


 その叫びは、カイルへ向いたのか。

 リセリアへ向いたのか。

 サラへ向いたのか。

 広場に立つ異形すべてへ向けたものだったのか。


 誰にも分からないまま、声だけが響いた。


「息子が……っ」

「何人死んだと思ってるんだ!」

「助けるなら、最初から全部守れよ……!」


 別の場所からも声が上がる。


 泣きながら喉を潰す女。

 崩れた家の前で立ち尽くしたまま、ただ首を振る老人。

 瓦礫の中から誰かの名を呼び続けていた若者が、声を失ったように口だけを動かしている。


 恐怖して動けない者ばかりではなかった。

 怒りに立っている者もいる。

 怒りの向け先を探している者もいる。

 縋る先が欲しい者もいる。


「王は……!」


「やめろ、前へ出るな!」


「離せよ! 離せっ!」


 兵士が住民を押しとどめる。

 だがその兵士自身の声にも、硬さが混じっていた。


 彼らの視線が、何度も揺れる。


 地を裂いた守護者へ。

 仮面をつけた灰のアモンへ。

 ボロボロのバルドへ。

 黒い翼のカイルへ。

 そして黒紫を纏うサラへ。


 どれも分類できない。

 どれも説明できない。


 

「……化け物」


 誰が言ったのか、分からなかった。


 その言葉も、カイルへ向けられたのか、サラへ向けられたのか、

 灰の異形へ向けられたのか、広場全体へ向けた嘆きだったのか、定まらないまま広がった。


 石がひとつ、転がった。


 泣きながら拾い上げた女の手は震えていた。

 肩を上下させ、顔を歪め、それでも投げずにはいられなかったのだろう。


「お前たちのせいで……!」


 投げられた石は、届かない。


 サラにも。

 カイルにも。

 リセリアにも。


 途中で失速して、砕けた石畳の上に乾いた音を立てて落ちた。


 その無力さが、かえって広場を満たす感情を濃くした。


 怒号、泣き声、罵倒、助けを求める声、拒絶、沈黙。


 どれもが混ざり合っているのに、まだかろうじて別々のものとして存在していた。


 そして、その割れ目へ――黒紫が染み込む。


 サラは喋らない。


 一歩も動かない。


 それでも、その周囲の空気だけが、目に見えない膜を張るように広がっていく。


 その膜の前で、カイルは息を止めたように立っていた。


 広場の怒号も、悲鳴も、泣き声も、全部まだ耳に入っている。

 なのに、足だけが一歩を選びきれない。


 サラを止めなければならない。

 このまま立たせておけば、もっと広がる。

 それは分かる。


 でも――。


「……カイル、逃げてもいいのよ?」


 隣から、リセリアの声がした。


 責める声色ではなかった。

 ただ静かに、選択肢としての問いだった。


 カイルはサラを見たまま答える。


「逃げても、終わらない」


 リセリアが小さく頷く。


「そうね」


「それに、あれを放っておくのは違う」


 サラのことを、よく知っているわけじゃない。

 それでも、あの黒紫を前にして見て見ぬふりはできなかった。


 宝具を手にしてから、世界はおかしくなり始めている。

 各国で不穏な宝物殿が現れ、今また、目の前で見たこともない異常が形になっている。


 ここで背を向けるのは違う。


 リセリアもまた、サラから目を離さずに言った。


「私もそう思う」


 王国騎士団副隊長。

 本来なら、守る側に立つ人間。


 その人が今、あの場所で黒紫を纏っている。

 敵だから斬ればいい――それだけでは済まない。

 けれど、止めなければもっと壊れる。


 リセリアの横顔は、そう言っていた。


 カイルは剣を握り直した。


「……行こう」


「ええ。止めるわ」


 二人は同時に、前を向いき


 二人は同時に地を蹴った。


 先に黒が走る。


 カイルは踏み込みを低くした。

 狙うのはサラの体じゃない。杖を持つ手か、足元か、とにかく体勢を崩して止める。そのためだけに剣が振り抜かれる。


「《暗影》――!」


 黒を引いた斬撃が走る。


 その直後、リセリアは半歩遅れて踏み込んだ。

 剣身に朱が絡みつく。

 狙うのはサラの急所じゃない。熱で押し止める。そのためだけに炎剣が振り抜かれる。


「《朱焔》――!」


 朱の斬線が、黒のあとを追うように奔った。


 次の瞬間。


 石畳が裂けた。


 《暗影》はサラの手前で止まらず、そのまま地を噛み、広場の端へひびを走らせる。

 砕けた石が跳ね、瓦礫の一角が崩れた。


 そこへ《朱焔》の熱が重なる。


 裂けた石畳の先、退路の脇に積まれていた木材と垂れ布へ火が走った。赤い熱が一気に広がり、逃げ場の口が狭まる。


 避難しかけていた住民たちの足元が崩れ、熱に押されて身を引いた者同士がぶつかる。

 抱き上げられた子どもが泣き声を上げ、石片が壁に当たって乾いた音を散らした。


 カイルの足が止まり、リセリアも剣を引いた。


 今、起きたことだけが重く落ちる。


 《暗影》が住民の足元を裂いた。

 《朱焔》が住民の退路を焼いた。


 止めるために放った。

 狙ったわけじゃない。


 それでも、傷つけた。


 その事実だけが、言い逃れもなく広場に残った。

 

 悲鳴が弾ける。


「う、あぁっ!?」

「逃げ――」

「やめろ!」


 怒号も、恐怖に潰れた叫びも、たしかにあった。


 けれど、それは広場のすべてにはならなかった。


 群衆を押しとどめていた騎士のひとりが、ふいに口元を歪めた。


 笑っていた。


 本人は、自分が笑っていることに気づいていないみたいだった。

 焦点の合わない目のまま、焼けた空気の向こうを見ている。

 頬だけが引きつるように持ち上がり、その顔に浮かんだものが怯えなのか、歓びなのか見分けがつかない。


「下がれ! 下が、れ……!」


 声は出している。けれどその目は、避難する住民ではなく、斬線の走った先をうっとりと追っていた。


 住民たちも同じだった。


 子を抱いた女が、青ざめた顔のまま助けを呼ぶかわりに、熱に浮かされたみたいな息を零した。


「……こっちを、見て」


 すぐ隣では、腰を抜かした男が石畳に手をついたまま、裂けた地面の向こうへ指を伸ばしかけていた。

 

「ぁ……まだ……」


 泣き声に混じって、別の声が落ちる。


「行か、ないで……」


 怒りも恐怖も消えていない。悲鳴もある。罵声もある。


 カイルは息を呑んだ。

 住民を狙ったわけじゃない。

 自分が。リセリアも。

 止めるつもりで振ったのに、届いた先はそこじゃない。

 ただ外した、で片づけるには、今のずれ方はあまりにも妙だった。

 

 ―――その直後だった。


 焼けた熱も、悲鳴の余韻も、そこにある。

 けれどその下を、別の何かが一斉にサラの方へ傾いた。


 何かが集まっている。


 サラの握る杖が、わずかに脈を打つ。


 その時になって、ようやく見えた。


 滲むように現れた黒紫が、杖の先端で膨らみ、次の瞬間には細く痩せる。


 吸って、吐く。


 まるで、呼吸したみたいに。


 杖は周りに纏わりついた黒紫を呑み込んでいく。


 広場のあちこち――住民たちのいた場所から、ごく細い黒紫の筋が、杖へ向かって引かれていた。


 一瞬だけ可視化されたその線は、次の瞬間にはもう見えない。


 けれど、見間違えようはなかった。


 ただ漂っているんじゃない。

 何かを形にする前触れみたいに、そこへ濃く、沈み始めていた。


 杖のまわりで脈打っていた黒紫が、ふっと止まった。


 一瞬広場の空気が、ひやりと静まる。


 次の瞬間。


 サラの真上――何もないはずの空間に、黒紫の線が走った。


 けれど、見間違えようがない。


 何もない空間に縦のヒビが入る。


 ビキっ、と。

 空中そのものに傷が入ったみたいに、黒紫を滲ませた亀裂が走る。


 そこで終わらない。


 ヒビの奥が、グ、と歪んだ。


 内側から、何かが押している。


 黒紫色の細長い指が一本。


 また一本。


 さらに、何本も。


 左右からそれぞれ四本の指が、縦に裂けた空間へ深く食い込み、そのままヒビの縁を掴んだ。

 

 節だけが異様に長い。

 人の手に似ている。似ているのに、気味が悪い。

 

 メキ、メキ、と嫌な音が鳴る。


 ヒビの縁を掴んだ八本の指が、同時に力をかけた。

 縦に走っていた亀裂が、耐えきれず左右へ押し広がる。


 黒紫を滲ませた裂け目の奥から、右手と左手が同時に迫り出した。

 

 ヒビをこじ開けたまま、その先だけがこちら側へ入り込んでくる。


 人の手に似ている。

 だが、節の長さも、指の比率も、どこかおかしい。

 似ていること自体が、気味悪い。


(……なんだ、あれ。どういう原理で出て来ているのか?魔法なのか?それとも召喚なのか?)


 カイルは息を呑んだ。

 

 目の前で、広場の前提そのものが壊れかけていた。


 広場の誰かが、悲鳴を上げることすら忘れたみたいに黙った。

  

 手の甲をこちらに向け左右五本の指が足のように、広場に着地した。


 左右の手には腕はない。

 あるのは手首まで。

 大人一人を優に掴める大きさだった。


 次の瞬間、膨らんでいた右手の甲がゆっくりと脈を打つ。


 右手は、生肉が腐りかけたような黒紫色だった。

 皮膚とも肉とも骨ともつかない曖昧な表面が、鈍い光を返している。


 膨らんだ所がゆっくりと開く。


 黒紫の瞳孔が焦点なんて合っていないはずなのに、

 その目は広場の奥―まだ生きている者たちの方へ、ピタリと向いた。


 サラはこっちを見ている。


 それなのに、その目だけが勝手に住民達を見ていた。


 右手の指が、わずかに開く。


 たった、それだけで、近くに散らばっていた草が朽ちていった。

 裂けた布の端からも艶が消える。


 ただ、少し動いただけなのに、生きている側だけが先に死に始めていた。


 遅れて、膨らんでいた左手の甲が同じようにゆっくりと目を開いた。


 左手は違った。


 こちらは肉という感じではない。濡れた金属が酸に侵され、表面ごと腐っていったような質感だった。


 左手の目は住民を見ない。

 

 巨大な丸い瞳だけが忙しなく揺れ続ける。


 忙しなく揺れ続けた瞳はゆっくりと瞬きをした。

 

 瞼から指を伝い、一滴の涙が石畳へ落ちた。


 ジュ、と小さな音が鳴る。

 

 涙が落ちた場所が色褪せる。


 それだけじゃない。

 継ぎ目に沿って褐色がじわりと走り、近くの柱の表面が内側から傷んだみたいに風化し崩れかける。


 右手の甲に開いた目が、ぴたりと止まった。


 向いた先は、集まっている住民達。


 崩れた石材に膝をつき、下敷きになった誰かへ必死に手を伸ばしていた住民がいる。

 届きそうで届かない距離だった。指先が震えている。

 それでも諦めず、もう一度だけ腕を伸ばそうとする。


 その方向へ、右手がゆっくりと迫った。


 右手と住民の間に落ちていた布切れから先に色が抜け、石畳の隙間から生えている緑の雑草も朽ちていく。


 命ある物が順に死んでいく。


「――ひっ」


 住民達は息を詰まらせた。


 助けようと伸ばしていた手が、途中で止まる。


 あと少しで届く。なのに、その少しが出せない。


 助けようとした住民の顔は手の方に向いていた。


 あの手に触れられたら終わる。


 理屈じゃなく、目の前に広がっている光景がそう語っている。


「逃げろ!」


 騎士が叫ぶ。


 騎士の怒声に、その住民の肩がびくりと跳ねた。

 次の瞬間、伸ばしていた手を引き戻し、弾かれたように立ち上がる。


「お、おい!待ってくれよ。あと少しなのに!助けてくれよ!」


 助け出そうとした住民の顔が暗くなる。


「すまない……!無理だ、無理なんだ……!」


 そう言い残し、瓦礫の下に置いたまま、右手の逆の方へ駆け出した。


 だが、逃げた先が、もう死んでいた。


 左手は、いつの間にか先回りしていた。


 手の指が地面についただけで、広場の石畳が褐色へ変わり風化した。

 乗り越えられるはずだった数々の瓦礫は脆く崩れ、広場を囲むかのように浸食していく。


 住民の喉が引きつる。


 前には右手。


 周りからは、浸食してくる足場。


 逃げるために選べたはずの余地が、広場から削られていく。


 その光景を見たカイルは、一歩前に出た。


「待って!何しようとしてるの?」


「助けないと!じゃないと、この国の人たちが――」


「行かせられない。」


「なんでだよ!今助けないとどうすんだよ!」


 カイルはリセリアに訴えかけるように声を出した。


「今の私達が行けば、余計に傷付ける!」

 

 その言葉に、カイルの足が止まる。


 さっき、自分たちの一手は住民の方へ流れた。

 止めるために振ったのに、結果は違った。


「じゃあ……どうやって……」


 答えは出ない。


 前に出れば、また傷つけるかもしれない。

 けれど、目の前ではもう次の誰かが追い詰められている。


 カイルは歯を食いしばった。

 前に出られない。

 出れば、また傷つける。

 目の前では人が追い詰められている光景を見ていることしかできなかった。


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