第三十二話 守護者
パキッ、と。
割れた仮面の破片が、石畳の上を転がった。
小さな音だった。
だが、その音は、広場に残った全員の耳に届いた。
逃げ惑う足音。
燃え上がる家屋。
瓦礫を踏み越える悲鳴。
その全ての中で、割れた破片を覗き込むようにアモンは膝をついて動かない。
そして――灰の外套が、ふわりと膨らむ。
風は吹いていない。
それでも外套が広がる。
まるで、見えない圧力が内側から押し広げているように。
石畳の上の粉塵が、わずかに浮き上がり、空気が震える。
住民の何人かが、本能的に後ずさった。
理由は分からない。
だが――危険だと、その場にいる誰しもが理解した。
空気が、重い。
言葉にできない圧が広場を押さえつけていた。
その時、背後から羽音が近づく。
カイルが、バルドの後ろについた。
「一体、何があったんですか?ナイトメアが消えて、それを辿って来たんですけど」
息は乱れている。
だが、視線はすぐに前へ向いた。
広場の中央。
そこに立つ灰の外套の男。
バルドは視線を外さないまま答える。
「いや、わからない。仮面が割れた途端に空気が変わったんだ。」
その言葉が終わると同時に――
国中に蔓延っていた灰が、ゆっくりと動き始めた。
霧のように漂っていた灰が、一本の流れを作る。
すべてが、広場の中央にいるアモンへと集まっていく。
「あーあ。」
アモンが、石畳に落ちた仮面の欠片を拾い上げる。
「団長にもらった仮面が……」
アモンは仮面の欠片を持ち、背中からゆっくりと起き上がる。
「この世界で生きている人間には、この仮面の価値はわからないでしょう。」
灰が、さらに濃くなる。
煙のように、霧のように。
その中心で、アモンの輪郭がゆっくりと揺れた。
バルドが低く言う。
「一体、何が言いたいんだ?」
灰が動く。
散っていた粒子が、少しずつ形を作り始めた。
肩、腕、角。
輪郭が、作り直されていく。
「あなた達は、のうのうと生きているから何もわからない。」
灰が収束する。
そして――その中から、アモンが姿を現した。
先ほどまでの姿とは違う。
頭には角。
蛇のようにうねる長い尾。衣装の装飾も、明らかに変わっている。
より重く、より異質なものへ。
その姿を見た瞬間、空気の圧が一段強くなった。
バルドは小さく息を吐く。
「カイル。」
視線はアモンから外さない。
「ここはいいから、リセリア王女の所に行ってくれ。」
カイルが一瞬だけ迷う。
だが、すぐに頷いた。
「……わかりました。死なないでくださいよ。」
その言葉に、バルドの口元がわずかに緩んだ。
ほんの一瞬だが確かに、笑った。
カイルは振り返らず走る。
瓦礫を越え、煙の中へ消えていった。
残された広場でバルドは弓を握ったまま、その圧を受け止める。
灰色の魔力が、広場に満ちていく。
道化の笑いは消えていた。
アモンはゆっくりと顔を上げる。
割れた仮面。
その片側だけが、わずかに開いた。
仮面の奥。
そこにあった瞳は――黒色だった。
光を吸い込むような、深い黒。
七色のどれにも属さない色。
その瞳が、静かにバルドを捉える。
バルドの眉が、わずかに動いた。
「瞳の色が……黒色?」
弓を握る手に力が入る。
「どういうことだ……なぜ七色に属さない色が、こんなに……。」
その時だった。
石畳の下から、低い音が響いた。
最初は、小さな振動だった。
遠くで何かが落ちたのか――その程度の揺れ。
だが、次の瞬間。
広場の空気が、わずかに震えた。
瓦礫がかすかに跳ねる。
石畳の隙間に溜まっていた砂が、さらさらと揺れ落ちた。
「……地震か?」
誰かが呟いた。
だが、すぐに違うと分かる。
地面の下で、何かが動いている。
ゆっくりと重く。
大地そのものが、呼吸しているかのように。
その時だった。
広場の上空を、影が横切る。
夜空にいた魔物の群れが、一斉に飛び立った。
翼の音が重なり、空気を切り裂く。
黒い影が月光を遮りながら、王都の外へと逃げていく。
住民の一人が震えた声で言った。
「……な、なんだ……?」
答えはない。
だが、誰もが感じていた。
見えない何かが――地中を、動いている。
広場の中央で、バルドの瞳がわずかに細くなる。
弓を握る手に、静かに力が入った。
その隣で、アモンの仮面の奥の瞳が、ゆっくりと細くなる。
「……ほう。」
怒りは、そこにはなかった。
むしろ、楽しそうだった。
「これはこれは……。」
まるで、予想外の演出が舞台に加わったのを見た道化のように。
アモンは、わずかに肩を揺らした。
◇
遠く、王城の塔。
紫の月光が、窓を照らしていた。
玉座の間ではない。
塔の頂に一人の男が、静かに立っていた。
紫の王マダイ・マドゥス。
王都の外縁。
石畳の波打つような揺れを、静かに見つめていた。
「やはり、サリエルの言う通りになってしまったな。」
侍従が駆け込んでくる。
「陛下!どこにいらっしゃいますか?」
侍従は王の姿を探す。
「どうかしたか?」
上から王の声が落ちてくる。
「陛下!何をしてらっしゃるのですか!宝物殿が崩壊しました!市街で戦闘が――」
言葉が止まる。
王は見下ろさない。すでに知っていると言わんばかりの顔だった。
しばらくして、マダイが呟く。
「……あれは私が対処しなくてはならんな。」
静かな声。
それだけで、侍従の背筋が伸びる。
「騎士団バルド団長が、悪魔と交戦中です!」
沈黙。
月光が、紫の瞳に映る。
やがて、王は飛び降りた。
「騎士団を動かせ。」
都の打つような揺れの後を追う。
王は静かに言った。
「私も行く。」
王の身体が、夜の空気へ溶ける。
塔の縁から飛び降りたはずのその姿は、地面へ落ちない。
紫の外套が月光を受けて揺れ、次の瞬間には王都の屋根の上へ着地していた。
石瓦がわずかに鳴る。
マダイは止まらない。
屋根から屋根へ、静かに進む。
その視線は、都の中心ではなかった。
王都の外縁。
大地が揺れている。
石畳の隙間がわずかに盛り上がる。
瓦礫が転がり、地面が波のようにうねる。
マダイは足を止めた。
「……始まったか。」
マダイは目を細める。
しかし、王の視線は地面には向かなかった。
そのさらに上の夜空だった。
黒紫の光が、空に浮かんでいる。
王の瞳がわずかに動く。
「……宝具が原因か。」
その光の中心。
動かない少女がいた。
サラだった。
黒紫の光を纏ったまま、空に静止している。
呼吸も見えない。まるで、時が止まったように。
王は小さく呟いた。
「……まだ動いていないのか。」
その瞬間。
サラの指先が、わずかに動いた。
ほんのわずかな動き。
だが、その瞬間。
黒紫の光が――脈打った。
ドクン。
まるで心臓の鼓動のように。
一度、二度、三度。
鼓動は、次第に強くなる。
黒紫の光が、波のように広がる。
夜の空気が震えた。
――その瞬間。
広場の音が、消えた。
燃えていた家屋の音も、
逃げ惑う足音も、魔物の羽音も。
すべてが、一瞬だけ止まる。
世界が、息を止めた。
その次の瞬間。
――大地が揺れた。
轟音と共に石と土が夜空へ吹き上がり、大地が裂けた。
そこから巨大な鱗が現れる。
一枚だけでも人の背丈ほど。
その上には巨大な頭が現れる。
蛇のようだが、人の知る蛇とは違う。
巨大な顎に長い牙、深い紫の瞳。
そして長い胴体。
地中から押し出されるようにゆっくりと姿を現す。
二十メートルほどの体が地上へ伸びる。
しかし――それでも全身は見えない。
巨体の大部分はまだ地中に埋まっている。
その姿が現れただけで都の空気が変わった。
裂けた大地の縁で、巨大な頭がゆっくりと持ち上がる。
紫の瞳が、静かに動いた。
その視線が向けられた先は地上ではない。
逃げ惑う人間でも騎士でもない。
ただ一つを見つめていた。
黒紫の魔力。
夜空に浮かぶ少女サラ。
巨大な顎が、わずかに開いた。
そして、低く呟く。
「……契約者。」
――その時。
屋根の上に、影が落ちた。
紫の鎧が静かに舞い降り、その人物は音もなく瓦の上へ着地する。
紫の王マダイ・マドゥス。
カイルとリセリアが振り向いた。
だが、王は二人を見ない。
視線はすでに別の場所へ向いていた。
まず、裂けた大地。
地中から現れた巨大な頭。
紫の鱗。
そして――地中へと続く長大な巨体。
マダイはわずかに目を細めた。
「……魔物ではないな。」
少しだけ間があった。
王の視線は、魔物の瞳を捉えている。
「……ヨルムンガンド」
その言葉に応えるように、巨体がわずかに動く。
巨大な顎が開いた。
低く、重い声。
「人はそう呼ぶ」
その瞬間。
そこにいる存在が、ただの怪物ではないことが確定した。
「なぜ現れた?」
静かな問いだった。
巨大な瞳は、サラを見たままだった。
そして、低い声が落ちる。
「七つの宝具の契約者が現れたからだ。」
マダイの目がわずかに細くなる。
「目的は?」
短い問い。返答は、迷いなく落ちた。
「守護者は、契約者の思いのままに意志を遂行する。」
それが、守護者の理だった。
そして、その言葉で、空気が変わる。
マダイは一瞬だけ沈黙した。
そしてもう一度問う。
「守護者ならばなぜ止めぬのか?」
幻獣の視線は、変わらない。
サラを見たまま低く答える。
「それが契約者の意志ではないからだ。」
低い声が、静かに落ちた。
マダイはわずかに頷く。
「……そうか。」
それだけで、王は理解した。
そして、静かに言う。
「ならば――あれは私が相手をしよう。」
その一言で場の空気が変わった。
カイルとリセリアはマダイの顔を見つめる。
「そう不安な顔をするな。サラを頼んだぞ。」
マダイはヨルムンガンドの方へ向かう。
◇
その時サラが動いた。
空の黒紫の光が、わずかに揺れる。
カイルが思わず顔を上げた。
空に浮かんでいたサラの身体が、ゆっくりと動き始める。
ただ――浮いたまま静かに、地上へ降りてくる。
閉じていた目が、ゆっくりと開いた。
その瞬間。
サラを包んでいた黒紫の光が、ふっと消える。
だが――代わりに、黒紫の魔力が溢れ出した。
リセリアは、降りてきたサラを見つめる。
「……サラを止めないと。このままだと、街への被害が広がる。」
瓦礫の転がる音。
遠くで悲鳴が混ざる。
この状況で放っておけば、どれだけの被害になるかは想像がついた。
そして、ふと隣に立っているカイルを見る。
その瞬間、リセリアの表情が、ぴたりと止まった。
リセリアはしばらくその姿を見つめていた。
そして、ゆっくりと首を傾げる。
「あれ?」
思わず声が漏れる。
カイルが振り向いた。
「どうしました?」
リセリアは、まじまじとカイルを見る。
翼の形でも色でもない。
カイルの翼の数。
ナイトメアと戦っている時は二枚だった。
それは間違いない。
だが今、夜の月光の中で広がっているのは――四枚。
左右に二枚ずつ。
黒い翼が、静かに広がっていた。
夜の空気を切るように、ゆっくりと動く。
まるで最初からそこにあったかのように。
そして、リセリアの視線が少しだけ上へ動く。
カイルの額。そこにある角。
以前は途中までしか伸びていなかったはずのそれが――
初めて見た時の状態に戻っていた。
「カイル……」
「はい?」
リセリアは真顔のまま言った。
「いつの間にか、元に戻ったの?」
「え?」
カイルは思わず自分の体を見下ろす。
腕、足、服。
特に変わったところはない。
「いや……別に変わってないですけど。」
黒い翼が、ゆっくりと揺れていた。
だが――カイルはまだ、それに気づいていない。
リセリアは、少しだけ眉をひそめる。
(……そういえば。)
以前、カイルが言っていた。
自分の翼は四枚ある、と。
あの時、私には二枚にしか見えなかった。
でも――
(……今は、四枚。)
遠くで大地が唸る。
王と幻獣が対峙し、サラの魔力が渦を巻く。
世界は確かに動いていた。
それでも――
この小さな会話だけは、不思議といつも通りのままだった。




