第三十話 対局
月に雲が差し掛かり、月光の光を拒んだ。
崩れ落ちた宝物殿の残骸の上で、粉塵がゆっくりと舞っていた。
雲を避けるように月が顔を出す。
ゆっくりと月光の光がスポットライトの様に一人を照らした。
半悪魔化したサラが、上空に静かに浮いていた。
足は地に触れていない。
紫と黒が混ざった《黯素》が、その身体を薄く包み込み、ゆらりと揺れる。
その揺れに呼応するように、黯素は街へと広がっていく。
屋根の上。石畳の隙間。割れた窓の奥。市場の道。
見えないはずのものが、ゆっくりと滲む。
空気が張り詰める。
中央上空にいるのは、サラ。
正面には、バルド。
弓を構えたまま、動かない。
側面に、黒翼を広げたカイル。
歯を食いしばり、ナイトメアから視線を逸らさない。
舞台の上では、ナイトメアが静止している。
泣き笑いの仮面は、微動だにしない。
そして――カイルとバルドの後方。
瓦礫の上に立つアモンが、
帽子のつばに触れたまま、静かにそれを眺めている。
別の位置では、リセリアが息を呑んでいる。
誰も、すぐには動かない。
上空にいる悪魔の様子を誰もが警戒していた。
風もないのに、粉塵だけが漂い、紫の国が段々と崩れていく。
粉塵の向こうで、サラが揺れている。
カイルの黒翼が、わずかに軋んだ。
視線は逸らさない。
浮かぶその姿を、睨むように見上げている。
あの色を、知っている。
胸の奥が、嫌に静かだった。
怒りでもない。恐怖でもない。
ただ――止めなければならない、という確信だけがある。
拳が、わずかに震えた。
リセリアは唇が動きかける。
「サラ――」名前を呼ぼうとして、止まる。
分かっている。
今のサラには、言葉が届かないことぐらい。
風もないのに、紫の粉塵が彼女の髪を撫でる。
手を伸ばせば触れられそうなのに、そこには深い断絶がある。
歯を食いしばり、剣を握り直す。
バルドは一歩、前へ出た。
弓を持つ手は、ぶれていない。
視線は、サラとは逆の方向。
自分たちがいる――ずっと後方。
瓦礫の上で静かに観測を続ける男へ向く。
アモン。帽子のつばに触れたまま、薄く笑う灰の道化師。
観測者同士の視線が、交わった。
放つ。――はずだった。
指が、止まる。
バルドは焦らず、宝物殿に入る前、同様にそこで数秒間目を閉じる。
戦場で目を瞑るなんてあってはならないことだが、バルドは冷静だった。
目を開けた瞬間“矢の先”が、変わった。
アモンではない。
何もない空間へ、弓を向ける。
それでも、アモンは動かない。
次の瞬間。
灰色の槍が、空間を裂いて飛来した。
バルドが先ほどまで狙っていた位置から。
音は遅れて届く。
矢が放たれ、槍の穂先を、正確に打つ。
金属が火花を散らし、灰の槍が崩れる。
しかし。
今度は、音もなく、空間が歪む。
角度は死角。反応の余地はない。
灰の槍が真後ろから突き出される。
だが、バルドはすでに矢筒から矢を引き抜いていた。
振り向く動作すら最小限。
矢の先端で背後の槍を弾く。
衝撃が、腕を震わせる。
だが。
三本目の灰の槍が、すでにバルドの足を捉えていた。
血が、滲む。
バルドの膝が、わずかに沈む。
アモンが、静かに微笑む。
「二手目までは、美しい。」
視線が交差する。
バルドの瞳と、アモンの瞳。
同時に、別の場所を見る。
瓦礫の左側、崩れた柱の影。
いや、さらにその奥。
二人は、まったく同じ位置を見ていた。
まだ誰も立っていない場所を。
アモンが、ゆるやかに口元を上げた。
「観測者同士で、少し遊びますか?」
夜が、わずかに深くなる。
アモンは動かない。
ただ、灰の外套だけが呼吸のように揺れた。
両手が上がる。
円を描くように、ゆっくりと弧をなぞる。
右へ五つ、左へ五つ。
指先が通った空間に、灰の魔法陣が形成される。
魔法陣から槍が生成される。
バルドは、目を閉じた。
数秒。戦場の音が遠ざかる。
近いはずの瓦礫の崩れが、別の夜の出来事みたいに遅れる。
――足りない。
避けても、受けても、最後の一本が残る。
いつも“一手だけ”足りない。
それでも、致命傷だけは勘で避けてきている。
だが、今回は――それじゃ届かない。
バルドが目を開けた瞬間、アモンが指を鳴らした。
十本が一斉に飛ぶ。
右から、左から、上から、低く。
逃げ道ごと押し潰す軌道。
バルドは矢を二本番える。
いつもの動き。
――だが、弓の周りで紫黒が滲む。
「……夜矢」
二本のはずの軸の周りに、同じ長さの影が次々と生まれていく。
矢が、倍に増える。
火花が散る。
二人の力は五分五分。
槍と矢は相殺し合い、地面に落ちる。
それでも一本は抜けてくる。
バルドの外套を裂き、血を連れていく。
足りない。また一手。
―――透かさず、数本の槍がバルドを襲う。
バルドは一歩右へ滑る。
足首に、何かに引っかかる違和感。
透明の糸が張り巡らされていた。
さっき弾いた槍の柄。そこに巻きつけられた灰糸が、空中で待っていた。
引っかかった瞬間、灰が閃光を孕み、衝撃が足元が爆ぜる。
石畳がめくれ、粉塵が舞い上がる。
爆煙の向こうで、アモンが帽子を押さえた。
「観客の皆さん! 見えますか――」
広場を見回し、首を傾げる。
「ああ、まだ宝物殿は崩れていませんでしたね。少々早とちりを」
爆発の煙幕からその声を裂いて、一本の矢が飛んでくる。
軽く体を捻り、アモンの頬を掠める。
「危ない、危ない」
バルドは爆風の中、静かに呟く。
「月の夜道」
四本の矢が放たれアモンに向かって一直線に飛んでいく。
アモンは体を捻って躱す。
「あなたの攻撃は非常に単調ですね。」
だが、躱したはずの矢が背後から戻り、空を裂いて、再度近づいてくる。
アモンが振り返る。
「これはどういった原理でしょうか?」
腕を組み、首を傾げる。
糸で弾く。だが矢は、さらに旋回し、そのままのスピードでアモンに向かう。
バルドの声が低く落ちる。
「……夜矢×2」
弓の周囲に紫黒が滲み、四本が、八本に増える。
軌道が重なる。八本に増えた矢がまた増える。
十二本へ。
「さすがに、この数はまずいですね」
アモンは本気で走り出す。
だが矢は影のように追従する。
バルドは片足を踏みしめる。
「紫の国を舐めすぎたな、アモン。君の“技”を全て明かしてやる」
「タネ証をしてしまっては、つまらないですよ?」
走りながら、アモンが笑う。
「でも、余裕はありませんし……おっと」
帽子が傾く。
「危ない。致し方ありませんね」
布がアモンの体を覆う。
その瞬間、姿が消える。
矢が空を裂き、三本が壁へ突き刺さり、追従が止まる。
だが残り九本は止まらない。
布が脱ぎ捨てられた方向とは逆。
そこに、アモンが現れる。
「全く。“技”を暴こうとする人は、観客には向いていませんね」
九本がアモンに迫る。
「この調子なら、残りも凌げそうですね。」
再びアモンは布を被る。
次に現れた瞬間。
目の前に一本の矢が至近距離まできていた。
アモンの瞳が見開く。
糸で体を引っ張り、地面に沿うように体を後ろへ倒す。
「危ないじゃないですか! 危うく死ぬところでしたよ!」
瞬間、即座に指を鳴らす。
灰の槍が二本現れ、九本の矢の間を縫い、一直線にバルドへ向かう。
バルドは腰にある二つの短剣を抜き、左右同時に弾く。
火花が散る。
弾かれた槍が空中に留まる。
「次のアモンの攻撃は?」
バルドは前を見る。まだ、体を沿った状態だった。
だが、その瞬間。
槍に巻かれた糸へ灰粉が走る。
「なぜ今、糸に灰を?」
良くアモンの方を見ると両手に、赤い石を持っていた。
「赤い石?」
外套の光や焚火の時に良く使われる可燃性の魔石。
アモンはそれを握り潰す。
灰を追うように爆発が連鎖する。
まるで導火線のように、空中を伝い、爆発はバルドへ。
さっきまで追っていた、九本の矢も飲み込み、爆発が迫る。
バルドはすぐさま振り返り、空中にある槍を掴む。
上空へ投げる。
爆発が槍を伝い、夜へ抜ける。
大爆発で宝物殿が揺れ、粉塵が落ちる。
少しずつ、宝物殿が崩壊していく。
アモンとバルド。
互いが正面に立ち、互いが観察する。
次の手を読む。
その“間”の奥の壁に――
黒翼。カイルが叩きつけられる。
瓦礫が崩れる。
だが即座に立ち上がる。
「まだ、救い出せる。」
ナイトメアの方へ飛んでいく。
アモンは一瞬だけ視線を向ける。
「あなた、“技”をどうやって見抜いたんですか?」
宝物殿が粉のように、消えていく最中アモンはバルドに問う。
「君の“技”は自分の姿を覆った瞬間、別の位置に灰が極わずかに集まる。そこを狙っただけだよ。」
バルドは弓を構えながら、答えた。
宝物殿が粉のように崩れ、月光の下へ散っていく。
二人の姿は街へと降り立つ。
アモンとバルド。
互いに弓と帽子に触れたまま、動かない。
そして。
二人の視線が、同時に同じ場所へ走る。
そこには、まだ何もない。
空間だけの沈黙。
次の瞬間に何かが起きるはずの位置。
だが――まだ起きていない。
月が雲から完全に抜ける。
灰の粉塵が止まる。
その“まだ起きていない未来”を、二人は同時に見ている。
——夜が、息を止めた。




