二十七話 開幕
宝物殿の中は――整いすぎていた。
床に血の跡がない。
壁に削れた傷も、焼け焦げもない。
それなのに、空気だけが重い。湿っているわけでも、冷たいわけでもないのに、
胸の奥に薄い膜が張り付くみたいな重さがある。
(……踏破済み、だよな?)
そう聞かされている。
けど、踏破済みって、こういう感じなのか。もっと、荒れてるものじゃないのか。
カイルは足音を殺して歩いた。殺したつもりでも、ここでは小さな靴底の擦れがやけに響く。
響いたあと、すぐ吸い込まれて消える。音が残らない。残したくない場所みたいだ。
横を見る。
サラ・フューシャは、黙ったまま進んでいた。
梟の意匠が付いた装備はいつも通りなのに、彼女の視線だけが、
床でも壁でもなく――“何もない空間”をなぞっているように見える。
言葉はない。
何かを言いかけて、飲み込んだ、という感じでもない。
最初から、言う気がない。観測の目だけが動いている。
前を行くバルド・トゥルバスが、立ち止まらずに言った。
「隊列は崩さない。足元を見て、同じ速度で。焦らなくていい」
声は穏やかだった。命令でも脅しでもない。
けれど、その一言で場が揃う。動きが揃う。迷いが消える。
(……なんで、こんなに落ち着いてるんだ)
カイルは思う。
頼れる、というより――この人の後ろなら大丈夫だ、と“勝手に”思ってしまう。そういう空気がある。
それが、少しだけ怖い。
宝物殿の奥へ、静かなまま、全員の足が揃っていった。
◇
通路を抜けた先に、空間が開けた。
そこは――覚えがある構造だった。
ルシファーの宝物殿と同じだ。
石畳の階段が、緩やかに上へと続いている。
段差は均一で、中央はすり減っている。
すでに何度も上り下りされた痕跡。
そして、その頂点。
祭壇の上に、一本の杖が祀られている。
長い杖型の宝具。
黒と紫を基調とした装飾が施され、先端には結晶が嵌め込まれている。
踏破済み。
ならば、あれが“核”のはずだ。
(……なのに)
カイルは、階段の端へと視線を滑らせた。
石は本来、紫を帯びている。
この宝物殿の色だ。
だが、その一点だけが――灰色に近い。
光を吸っているようで、反射していない。
(……なんだ、あれ)
目を細めても、焦点が合わない。
近づけば見えるはずなのに、距離感が曖昧になる。
そこだけ、石畳の隅がわずかに“沈んで”いる。
削れたわけでも、崩れたわけでもない。
――なのに。
先に感じたのは、視覚じゃなかった。
誰かいる。
そんな感覚が、背筋を撫でた。
音はない。
気配もない。
それでも、その灰色の隅に“立っている”何かがいる。
カイルは、無意識に一歩踏み出しかけて、バルドが止めた。
「これ以上進むのは危険だ。じっとしてて。」
バルドでさえも、ここから先にいる人物に注意を払った。
ただ、進んではいけないような、
まだ進むべきじゃないような、曖昧な引っかかり。
後ろで、誰かの足音が止まる。
だが、誰も言葉を発しない。
石畳の階段の隅。
その“色の抜けた間”の奥から、静かに視線が返ってくる。
◇
階段の隅に、一人現れる。
憲兵の制服。
見慣れた裁断。肩章の形。胸元の紋章の位置。
規定通りの装い。
だが、色がない。
紫でも黒でもない。
布も金具も革も、すべてが同じ灰に沈んでいる。
血の気が抜けたみたいに、世界から一段引いた色。
(……憲兵?)
一瞬、そう思った。
誰かが先に来ていたのか。
踏破済みなら、警備がいてもおかしくない。
だが、次の瞬間に気づく。
立ち方がおかしい。
自然に立っているのではない。
階段の隅、その“色の抜けた間”の境目に、ぴたりと位置を合わせている。
まるで、そこが舞台の定位置であるかのように。
顔が、こちらを向いた。
仮面だ。
白でも黒でもない、灰色の仮面。
口元だけが、ゆるやかに弧を描いている。
笑っている。
目の穴の奥は暗く、何も見えない。
それでも、視線が合ったと分かる。
誰も動かない。
灰色の憲兵は、一歩も踏み出さない。
逃げもしない。構えもしない。
ただ、そこに立っている。
ただ、わかる。宝物殿に入った人間は一人しかいない。
ロッシュだ。
間違いない。
その瞬間。
「ようこそ。お待ちしておりました」
柔らかい声が、空間に落ちた。
反射も反響もなく、直接耳の奥に届くような声。
ロッシュの仮面は動いていない。
笑った口元は、ただの彫刻のように静止している。
――違う。
視線が、自然と上へ引き上げられた。
石畳の階段を見上げる。
頂点。
祭壇に祀られた杖型の宝具の、そのすぐ横。
そこに、もう一人立っている。
灰色の燕尾服。
細身に仕立てられたテールコートの裾が、静かに垂れている。
胸元には同色のネクタイ。
頭には、艶を失った灰のシルクハット。
そして、顔には――同じく、笑っている仮面。
だが、立ち方が違う。
ロッシュが“置かれている”のに対し、
その男は“舞台の中央に立っている”様だ。
軽く、帽子のつばに指をかける。
芝居の幕が上がる直前の、ほんのわずかな合図のように。
「どうぞ、ご遠慮なく。進むも、引くも、お好きなように。逃げられれば、の話ですが」
礼儀正しい声音。
すでに、選択肢の行き先が決まっている者の声。
カイルの喉が、ひりついた。
灰色の仮面が、ゆるやかにこちらを向き、わずかに帽子が傾く。
「――私は道化のアモンと申します」
その名が落ちた瞬間、
宝物殿の空気が、わずかに沈んだ。
◇
灰色の仮面が、わずかに傾いた。
アモンは、階段の上から視線を落とす。
ロッシュへ。
値踏みするでもなく、怒るでもなく。
舞台に置かれた小道具を確認するような、淡い視線。
「さて」
その一音で、空気が張り詰める。
ロッシュは動かない。
だが、制服の下で、何かが蠢いている。
布の下を、煙のようなものが走る。
紫でも黒でもない、鈍い灰。
黯素が、呼応している。
アモンはゆっくりと、手袋に触れた。
指先を揃え、軽く鳴らす。
パチン、と音が鳴る。
ロッシュの体が、ぴたりと止まった。
次の瞬間。腕が、唐突に持ち上がる。
途中の動きがない。
かくん、と肘が折れた位置で止まる。
膝が一定の間隔で落ちる。
何かで操られた人形のように。
粉のようなものが、静かに制服の縫い目から、袖口から、襟元の隙間から滲み出している。
細かな灰色の粉塵が、ゆっくりと零れ続ける。
風もないのに、空中に漂う。
ロッシュの体を中心に、淡い靄のように纏わりつき、薄い層を作る。
足が石畳から数センチ、落ちずに揺れる。
だが、揺れ方が一定だ。
生き物の揺れではない。
「やっぱりトーンレスじゃないといまいちですね。」
アモンの声が落ちる。
その瞬間、ロッシュの首が段階的に傾く。
かく、かく、と角度が増す。
灰が節々から滲み続ける。
バルドが落ち着いた声で語る。
「灰が、異常に漏れ出ている…まるで、アークエネミーみたいだ。」
ロッシュの足が、宙で止まる。
仮面がこちらを向く。
人型のまま。だが、すでに“別種”だ。
ロッシュの足が地につき、ゆっくり踏み込む。
ただの踏み込みではない。灰が足元で圧縮される。
右手に握られているのは、憲兵の護身用の剣。
本来は市街警備のための細身の刃。
だが今は、銀色の艶やかさを失い、灰に侵されている。
刃に沿って、霧のような灰が絡みつく。
次の瞬間、胴体が先に動き、体が弾けるように前へ出る。
速い。飛ぶように距離を詰めて来ている。
人間の可動域を逸脱した角度で体が捻れ、斜めに傾いた姿勢のまま、剣が振り下ろされた。
灰が刃に凝縮された斬撃は振るわれた瞬間、灰が伸びる。
刃の軌道をなぞるように、二重の斬撃が走る。
カイルは瞬発的に宝具を構えた、衝突。
黒の宝具と灰の刃が激突して、火花ではなく、灰の粉が爆ぜる。
カイルの体は吹き飛び、石壁に叩きつけられた。
宝具が衝撃を受け止められたが、胸に痛みはある。
だが、折れてはいない。まだ立てる。
ロッシュはまたも、何かに引っ張られていて、片足で石畳に触れたまま、体を斜めに傾けている。
重力を無視しているような姿勢。
首が段階的に傾く。
かく、かく、と。
次の瞬間、灰が刃に再び集まる。
圧縮され、刃の延長となり、横薙ぎに振るう。
灰の斬撃が無数に空間を走る。
階段の縁が削り取られる。
カイルは横へ跳び躱す。
「下がれ!君が戦ってはダメだ!」
バルドの声。焦りが混じる。
カイルは歯を食いしばる。
「俺はここで結果を残さないと――!」
真正面から踏み込み、深く被っていたフードが外れる。
「ルカを探しに行けない!
だから――やるしかないんです!」
灰の斬撃を躱しながら、踏み込む。
怖くないわけじゃない。勝てる保証もない。
それでも。
ここで倒れたら――ルカに届かない。誰にも届かない。
結果を残せなければ、探しに行く資格もない。
その考えが、腹の底で固まる。
その瞬間。
抑え込んでいた黒い何かが、内側から押し上げる。
黒い霧が、カイルの周りに纏わりつく。
次の一歩と同時に、それが弾けた。
頭の右側だけに歪で完成していない、欠けた角が現れる。
同時に、背中の奥で何かが現れる。
黒い翼が、二枚が現れ赤い竜眼が、強く光る。
それでも灰の斬撃が迫る。
「……翼?眠ってたルシファーが――封鎖が……解けた?
俺の体に……適応しているのか……?」
カイルは、翼で空気を掴み、軌道を変える。
カイルの剣がロッシュの胴を横薙ぎに斬る。
アモンが手で仮面を覆いかぶせる。
「なるほど。黒い宝具を見た時、さてはと思いましたが――
宝物殿が消えたと聞いていましたが、まさかあなたが持っていたとは。」
灰が散り、視界で前が見えなくなる。
終わった。そう思い後ろを振り向いた瞬間、散っている灰の中から刃が顔の前に迫る。
「戦場で最後まで気を抜くな!」
刃がそこにくると予測していたかのように矢が飛んでくる。
衝突し、ロッシュは壁際まで飛ばされ片腕が飛ぶ。
バルドが弓を下ろして背後に立つ。
「驚いたな……だが気を抜くな」
壁際まで飛んだ、ロッシュの砂埃が晴れる。
失われた部位から灰が集まり、ロッシュの部位を再生させる。
まるで、攻撃は聞いていないような素ぶりでこちらを見ている。
笑っている仮面が、不気味に感じる。
「あなたには止められますか?」
アモンの声が空間に響く。




