第二十五話 裁定
宝物殿の前に、夜が溜まっていた。
月光は低く、石畳に長い影を落としている。
ざわめきは消えていない。
だが、動きが止まっていた。
人々の視線が、一点に集まっている。
カイルだった。
フードを失った頭。
隠しようのない色。
誰も声を出さないまま、ただ見ている。
宝物殿の扉は、すでに閉じていた。
ロッシュ・ギニョールの姿は、もうない。
その前に、一人の男が進み出た。
紫と藍を重ねた甲冑。
外套の裾が、月明かりをわずかに反射する。
男は、民衆の方へ向き直った。
少しだけ、声を張る。
怒鳴るほどではない。
しかし、遠くまで自然に届く声だった。
「皆さん、お騒がせしました」
それだけで、空気が一段落ちる。
「ここから先は、こちらで引き取ります」
肩書きは言わない。
命令口調でもない。
説明もしない。
しばらく、誰も動かなかった。
それでも――
一人が、歩き出す。
次に、もう一人。
返事はない。
拍手も、声も上がらない。
ざわめきだけが、形を変える。
視線が外れる。
背中が向けられる。
まるで、何事もなかったかのように。
人々は、夜の流れに戻っていった。
「……え?」
カイルが、小さく声を漏らした。
理由は分からない。
ただ、自分を縫い付けていた視線が、消えている。
男は、その横に立った。
少し困ったように、頭の後ろへ手をやる。
「……本当はね。
こういう形で場を収めるの、あまり好きじゃないんだ」
言い訳ではない。
自慢でもない。
ただの、独り言のような調子だった。
その間に、壁際にいた人物が踵を返す。
何も言わず、歩き出す。
進む先は、城の方角だった。
バルドが、カイルとリセリアを見る。
短く、自然に。
「さ。行こうか」
拒む理由はない。
縛られる理由も、まだない。
四人は歩き出す。
靴音だけが、夜に残る。
城内へ続く通路は、長く、窓がない。
曲がり角を一つ越えるたび、街の気配が遠ざかる。
誰も喋らない。
◇
城内の空気は、街と質が違った。
歩を進めるたび、音が削がれていく。
窓はない。
月光も届かない。
最後の曲がり角を越えたところで、扉が一つ現れる。
石の壁に埋め込まれたような、簡素な扉だった。
バルドが手を伸ばす。
強く押すことはしない。
扉が閉まった。
強くはない音だった。
でも、その一音で戻る方向が消えたのは分かった。
石造りの小部屋だった。
窓はない。
灯りは一つだけで、影が床に溜まっている。
音は跳ねない。なのに、沈黙だけが貼りついていた。
俺とリセリアは、並んで椅子に座らされた。
机を挟んだ正面に、あの男が腰を下ろす。
少し離れた壁際に、もう一人。
紫の鎧を着た女が立っていた。
「改めて、私は王国騎士団団長、バルド・トゥルバスだ」
男が言う。声は落ち着いている。
「こちらは副隊長のサラ・フューシャ。立ち会いを頼んでいる」
壁際の女――サラが、ほんの少しだけ頷いた。
それだけだ。
喋らないし、近づかない。
「先に言っておく」
バルドが、俺たちを見る。
睨んでいない。
責めてもいない。
「ここは、君たちを裁く場じゃない」
「……」
「話を聞く。判断は、その後だ」
言い切って、バルドは口を閉じた。
――逃げられそうで、逃げられない。
縛られていない。
武器も取られていない。
それなのに、なぜか立ち上がる気が起きない。
リセリアは、隣で背筋を伸ばしたままだ。
守る、というより――
一緒に受けるつもりで座っている。
サラは動かない。
視線も、俺たちには向いていない。
それでも、この部屋に“出口がない”ことだけは、
その立ち位置で十分伝わってくる。
バルドが、机に指先を置いた。
「じゃあ、いくつか聞かせてほしい」
一拍。
「まず聞く。君の髪の色についてだ。なぜ、ノワールなんだ?」
「……分からない。宝具を手に取り、気づいたらこうなってた。でも、最初からノワールだったわけじゃない」
「元々は?」
「白だった。トーンレスって言われる色」
ここで、問いは一度終わった。
俺が何者か――少なくとも、色の出自だけは、嘘なく置かれた。
白だった。
その事実が、部屋の底に沈む。
音もなく、水に落ちた石みたいに。
「補足します。ノワールが忌避される色であることは承知しています。歴史的にも、例外なく」
「ですが、カイルは違います。その色に相応しい人物ではありません。私が知る限り、同一視はできない。断言できます」
リセリアの言葉は、弁護というより報告だった。
感情を足さず、事実だけを並べる。
「フレイ・ガルドの第一王女が、ノワールの少年と共に姿を消した――そう噂されています」
「何かを隠したいからではありませんか? フレイ・ガルド王国第一王女、リセリア・フレイ様」
その一言で、空気が切り替わった。
庇い立ては、ここまでだ。
リセリアは口を閉じる。
言い返さない。
今は、それが最善だと分かっている顔だった。
「次だ。なぜ紫に来た。目的は何だ?」
「ノワールに関する書物があると聞いた。だから来ました。それ以外の理由はないです」
逃亡ではない。
侵入でもない。
ただ、知るために来た。
それ以上でも、それ以下でもない。
バルドは、それを否定しない。肯定もしない。
「なぜ、あの憲兵を追った?」
「図書塔の司書から聞いた。ロッシュ・ギニョールがノワールに関する書物の一部を破った容疑があるって」
「それで?」
「ノワールについて何か知ってると思った」
言いながら、
それが正しかったのかは分からなかった。
筋は通っている。
でも、同時に――
かなり危ない橋を渡ったとも思う。
「宝物殿の前だ。なぜ、止まらなかった?」
「……考えた記憶がない。ノワールについて何か知ってるかもしれないロッシュが、
宝物殿に入っていった。それ追っただけです。」
「……これ以上は、我々の判断を越えます」
「……ああ。これは王の判断だ。君たちが悪いわけじゃない。ただ、僕では対応しきれないと判断したまでだ」
結論は出なかった。
場の重心が、静かに移る。
視線の先が、同じ一点に収束する。
――王へ。
◇
バルドが言い切った直後、誰も言葉を継がなかった。
異論は出ない。
沈黙だけが、その判断を確定させる。
扉が開く。
長い廊下だった。
足音が、均等に響く。
曲がり角が続き、見通しはきかない。
見張りはいない。
歩きながら、バルドがわずかに振り返る。
「カイル」
呼ばれて、反射で顔を上げる。
「この先は、謁見の間だ。
中に入って立ち止まったら、僕の真似をすればいい。
何かあったらフォローするよ。」
説明というほどのものでもない。
指示というより、気遣いだった。
そのまま、軽く笑う。
「リセリア様は……知ってるよね?」
確認するような口調。
王女だと強調する気配はない。
やがて、重い扉の前で足が止まる。
開く音が、大きい。
やけに、広く響いた。
中に入った瞬間、
広さより先に、足が止まりそうになった。
天井が高い。
でも、見上げたくならない。
横に広いのに、
前に進む距離が、やけに短く感じる。
人は少ない。なのに、壁の装飾と灯りの影が、見られている感じだけを増やす。
灯りは点いている。
暗くはないはずなのに、
どこもはっきり見えない。
ここが何なのか、
ちゃんと説明しろと言われたら、できない。
でも――
ここで嘘をついたら、
逃げ場はなくなる。
そんな場所だ、ということだけは分かった。
目の前には数段の階段があり、
玉座は一面のステンドグラスを背にして据えられていた。
そこに、王が座っている。
見上げる形になるせいか、
視線が合ったのかどうかも分からない。
――ここで、俺が何かをする場じゃない。
そう考えたというより、
体が先に、理解していた。
誰も命じていないのに、動きが揃った。
最初に、バルドが歩みを止める。
一歩で区切り、迷いなく片膝をついた。
顔を伏せ、片膝とは逆の腕を床につける。
王国騎士団の礼だった。
サラも続く。
音を立てず、同じ型で膝をつく。
その姿勢のまま、完全に動きを止める。
リセリアは、一瞬だけ間を置いた。
そして、見た通りに倣う。
王女としてではなく、無礼にならない形を選んだ。
最後に、カイルも膝を折る。
誰も言葉を発していない。
だが、礼は成立していた。
揃えられたのではない。
倣った結果、揃ってしまった。
「……マダイ陛下。連れてまいりました。」
沈黙が続いていた。
待たされている、という感覚ではない。
量られている。そういう静けさだった。
王は玉座に座ったまま、身じろぎ一つしない。
近づいてもこないし、視線で追い詰めてもこない。
それでも、場の中心がそこにあることだけは、誰の目にも明らかだった。
「一つ、聞こう」
声は低く、よく通った。
感情は読めない。
「君は――
ノワールという呪いの色を背負ってまで、
何を成し遂げようとしている?」
「……家族を、取り戻すためです。
顔は見えませんでした。でも、意図的に攫われました。」
飾る言葉は浮かばなかった。
一度、息を吸う。
思い出すだけで、喉の奥が乾く。
「その時――
言葉を聞いたんです。
『コード #FFFFFF #FF0000、確保』……そう聞こえました。」
王の表情は変わらない。
「意味は分かりません。
でも、誰かが狙ってやった。
……僕がどうなってもいい。ただ、ルカだけは取り戻したい。お願いします」
言い切った。
沈黙が落ちる。
空気が重い。
王はすぐには答えなかった。
「この国は、精神を重んじる
君の精神を読んだが、
言葉との相違は見られない」
淡々とした声だった。
それは同情でも、情けでもない。
国としての判断だった。
「君自身は、信頼に値する。
だが――ノワールは別だ。国として、放置はできない」
空気が、わずかに締まる。
信頼と不安が、はっきりと切り分けられた。
王は、先ほどの言葉に戻らない。
「……理解できない言葉ほど、厄介だ」
コードの話だと分かる。
「それは、個人の事件ではない可能性がある」
沈黙の中で、バルドが膝をつけたまま、手を上げる。
「陛下。進言してもよろしいでしょうか?」
「許す」
「ノワールと宝物殿の出現。
無関係とは思えません。
処分を下す前に、一度宝物殿に連れて行くのはどうでしょうか?」
いつもの陽気さはない。
王は、すぐには答えない。
そして、静かに言った。
「理は通っている」
視線が、こちらに向く。
「ノワールよ。
悪ではないと言うのなら、
言葉ではなく結果で示せ。」
条件が示される。
「我も、ノワールの出現と、この現象が偶然重なったとは考えにくい。
バルド・トゥルバスとサラ・フューシャを監視下で、宝物殿を調べよ。
帰還後、改めて判断する。」
見逃しの約束はない。
だが、即時の処断もない。
「無成果であれば、
次の処置がある」
「……分かりました」
喉が鳴る。
「やります!
それで、ルカに近づけるなら」
王は玉座に座ったまま、短く言った。
「では、行け」
それで終わりだった。
バルドが動き出す。
サラが無言で、バルドの後ろをついていく。
選択肢は、もう残っていない。
前に進むしかない状況だと、はっきり分かった。
これは赦免ではない。
試されるという宣告だった。
四人が出て行った後。
王は、玉座に座ったまま、わずかに息を置いた。
「君がそういうのは分かる。
だが――一度、見届けてからでもいいだろう。サリエルよ。」




