お兄さん?
馬車が、ゆっくりと街道を進んでいた。
ガタガタと揺れる幌付きの荷馬車。
その荷台で、アキラは積まれた荷物に背中を預けていた。
「…………」
揺れる。
思ったより揺れる。
「尻痛いな、これ」
誰に言うでもなく呟く。
「馬車なんだから仕方ないでしょ」
前の方から声が返ってきた。
「聞こえてたん?」
「聞こえるよ」
アキラが幌の前方から顔を出す。
御者台のすぐ近くを、メルが歩いていた。
その腰には剣。
そして身体には――先ほどアキラが手を加えた胸当て。
完全なものではない。
動きを邪魔する部分を外し、留め方を変えただけ。
守れる範囲も減っている。
それでも、何も身につけていなかった時よりはマシなのだろう。
「もうちょいこう……なんとかならんの?」
「何を?」
「揺れ」
「知らない」
「冷たない?」
「普通」
メルは振り返りもせずに答えた。
耳だけが、周囲の音を拾うように時折動いている。
護衛として、辺りを警戒しているのだろう。
「…………」
アキラはその耳を眺めてから、また荷物に背中を預けた。
幌の後ろから外を見る。
後方へ流れていく街道。
その両脇に広がる景色。
森はもう遠くなっていた。
「…………」
改めて考える。
本当に異世界なんやな。
神に会った。
魔王を倒せと言われた。
森に放り出された。
巨大なトカゲに追いかけられた。
犬耳の少女と出会った。
そして今は、その少女の鎧を作るために馬車に乗っている。
「……何しに来たんやっけ、俺」
前を歩いていたメルの耳が、ぴくりと動いた。
「何か言った?」
「そこまで聞こえるん?」
「聞こえる」
「便利やな、その耳」
「そう?」
「うん」
メルの耳が少しだけ動く。
アキラはそれを見て笑い、再び荷物に身体を預けた。
その時だった。
メルの耳が、もう一度動いた。
「…………」
さっきとは違う。
左右に動き、何かを探る。
メルの足が止まった。
「止まって」
声も変わっていた。
商人が手綱を引く。
馬車がゆっくりと止まった。
「どうした?」
剣を持った男が尋ねる。
メルは答えない。
耳が動く。
鼻先がわずかに上がった。
「……いる」
「どこだ?」
「前。右側」
三人の護衛が一斉に武器へ手を伸ばす。
「三匹……だと思う」
「分かるん?」
荷台からアキラが顔を出した。
「聞こえる。それに、匂いも」
「やっぱ便利やな」
「今それ言う?」
直後。
街道脇の茂みが大きく揺れた。
飛び出してきたのは、四本足の魔物だった。
狼に似ている。
だが、大きい。
どう見ても普通の狼ではない。
一匹。
二匹。
三匹。
「ほんまに三匹おるやん……」
弓を持った男が矢をつがえる。
剣を持った男が前へ出る。
槍の男がその横についた。
そして――
メルも剣を抜いた。
地面を蹴る。
「…………」
アキラは思わず身を乗り出した。
速い。
やはり速い。
一匹の魔物がメルへ顔を向ける。
アキラは息を止めた。
さっきの巨大トカゲとの戦いが頭をよぎる。
あの時。
メルは攻撃できる位置まで入っていた。
だが、相手が自分へ向いた瞬間に退いた。
防具がないから。
一度でも攻撃を受ければ危ないから。
今度も魔物がメルへ飛びかかる。
メルが地面を蹴った。
身体を捻る。
胸当てが、その動きを邪魔しない。
牙がすぐ横を通り過ぎる。
メルは退かなかった。
そのまま一歩。
さらに内側へ入る。
剣が走った。
魔物の脇腹を斬りつける。
「おお!」
思わずアキラの声が出た。
メルは止まらない。
身体を返す。
肩が動く。
腰が回る。
尻尾が大きく振れ、崩れかけた身体のバランスを戻す。
胸当てを身につけている。
それでも――
動けている。
「いけるやん」
アキラは笑った。
だが。
メルの剣を受けた魔物が暴れ、前脚を振るう。
メルがかわす。
爪が胸当ての端を掠めた。
「っ!」
メルが一歩退く。
防具には浅い傷。
身体には届いていない。
それを見たアキラの表情が変わった。
「…………」
守れた。
けれど。
もし今の攻撃が、アキラが外した部分に当たっていたら。
「やっぱ、あれで完成はあかんな」
動ける。
守れる。
その両方が必要だ。
やはり街の職人に見てもらわなければならない。
そんなことを考えていた、その時。
「お兄さん!」
御者台から商人の声が飛んできた。
「ん?」
「見てないで手伝っておくれ!」
「俺?」
アキラは自分を指差した。
「そうだよ!」
「いやいやいや」
アキラは首を振る。
「俺、戦ったことないで?」
「こっちだって襲われてるんだよ!」
「護衛おるやん!」
「三匹だけとは限らないだろう!」
「知らんがな!」
「お兄さんも若いんだから、少しくらい手伝っておくれ!」
「…………」
アキラの動きが止まる。
「若いって……」
言い返そうとした、その時。
戦っていたメルの耳が、ぴくりと後ろへ向いた。
「…………!」
メルが振り返る。
「アキラ、後ろ!」
「え?」
馬車の後ろ。
茂みが大きく揺れた。
もう一匹。
狼のような魔物が飛び出してきた。
「増えとるやん!」
魔物が地面を蹴る。
「うおっ!?」
考えるより先に身体が動いた。
横へ飛ぶ。
直後。
魔物が、さっきまでアキラがいた場所へ飛び込んできた。
「危なっ!」
魔物がこちらを向く。
低く唸る。
「いや、俺ちゃうやろ」
通じるはずもない。
再び魔物が地面を蹴った。
アキラは走る。
「しつこいな!」
速い。
だが――
走れる。
思った以上に足が前へ出る。
身体が軽い。
森で巨大なトカゲから逃げた時は必死だった。
自分の身体がどうなっているかなんて、考える余裕もなかった。
だが今は違う。
「なんやこれ……」
魔物が距離を詰める。
アキラはまた横へかわした。
「お兄さん、何か武器を!」
商人が叫ぶ。
「持ってへんわ!」
「何でもいい!」
「何でもって――」
アキラが周囲を見る。
剣なんてない。
槍もない。
あるのは。
「…………」
足元に転がる石。
「これでもええんか?」
誰に聞くでもなく呟く。
魔物がこちらを向いた。
再び走り出す。
「もうええわ!」
アキラは足元の石を掴んだ。
「これでも食らっとけ!」
思い切り腕を振る。
石が手を離れた。
「…………え?」
自分で投げておきながら、アキラが目を見開く。
速い。
思っていたより、ずっと速い。
石は真っ直ぐ飛び――
ゴッ!
鈍い音とともに、魔物の頭へ直撃した。
その身体が大きく傾く。
二、三歩よろめき。
そのまま地面へ倒れた。
「…………」
動かない。
アキラは固まった。
倒れた魔物を見る。
自分の右手を見る。
もう一度、魔物を見る。
「……俺、こんな肩強かったっけ?」
「すごいじゃないか!」
商人が御者台から声を上げる。
「やっぱり若いと違うねぇ!」
「…………」
アキラがゆっくり商人を見る。
「なあ、おっちゃん」
「なんだい?」
「さっきから若い若い言うてるけど」
アキラは自分を指差した。
「俺、四十一やで?」
「…………」
商人が固まった。
近くにいた剣の男までアキラを見る。
「……は?」
「いや、せやから四十一」
「何言ってるんだい?」
「歳の話や!」
「そんなわけないだろう!」
「なんでやねん!」
商人はアキラの顔をまじまじと見る。
「どう見ても二十代前半だよ」
「…………は?」
「私の息子がそのくらいなんだけどね。君も同じくらいに見えるよ」
「…………」
アキラは自分の手を見る。
手のひら。
指。
腕。
そして、さっき石を投げた右手。
あの速さ。
あの威力。
それだけじゃない。
走れた。
避けられた。
息も、思ったほど切れていない。
言われてみれば。
手も。
腕も。
顔も。
四十一歳だった頃とは、どこか違う気がする。
他人のことには気づくくせに。
自分のことには――
今までまったく気づかなかった。
「……マジか」
アキラは、もう一度自分の手を見る。
「俺、若返ってるやん」
その言葉を、少し離れたところにいたメルの耳が拾った。
ぴくりと動く。
だが。
メルは何も言わなかった。
やがて戦いが終わった。
護衛たちが周囲を確認する間、アキラはメルの胸当てを見ていた。
爪が掠めた跡が残っている。
「身体、大丈夫なん?」
「うん」
メルも胸当てを見る。
爪が掠めた跡に、そっと指を触れた。
「これがなかったら……多分、怪我してた」
「…………」
「ちゃんと動けたし、それに――守ってくれた」
メルは胸当てから顔を上げる。
「ありがとう、アキラ」
「…………」
アキラは少しだけ目を逸らした。
「いや、まだ完成ちゃうし」
「それでも」
メルは小さく笑った。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
アキラは少し照れくさそうに頭を掻いた。
それから、傷のついた胸当てを見る。
「でも、やっぱこれで完成はあかんな」
「うん」
「今回は守れたけど、ここに当たってたら危なかったやろ?」
アキラが指差したのは、動きやすくするために守りを減らした場所だった。
メルもそこを見る。
「……うん」
「ちゃんと動けて、ちゃんと守れるようにせな」
「できるの?」
「俺には無理」
「…………」
「せやから、できる奴に頼むんやろ?」
メルは一瞬きょとんとして――
「……そうだった」
小さく笑った。
安全が確認されると、一行は再び街へ向かい始めた。
メルはまた御者台の近くを歩く。
アキラは荷台へ戻り、荷物に背中を預けた。
ガタガタ。
ガタガタ。
「……やっぱ尻痛いな」
前を歩くメルの耳が動いた。
「若くても痛いものは痛いんじゃない?」
「…………」
アキラが前を見る。
「そこまで聞こえるんやったな」
「うん」
「なんやねん」
「別に」
メルは振り返らない。
けれど、その尻尾が少しだけ揺れていた。
しばらくして。
御者台の商人がこちらを振り返った。
「そういえば、お兄さん」
「その呼び方、まだ慣れんな……」
「君、本当にどこから来たんだい?」
「どこって?」
「どこの町や村から来たんだい?」
「…………」
アキラは少し考えた。
日本。
言ったところで、おそらく通じない。
それでも。
「日本」
「ニホン?」
商人が聞き返す。
前を歩いていたメルも、少しだけこちらを振り返った。
「ほらな」
「何が?」
「言っても分からんやろ?」
「そんな場所、聞いたことがないね」
「やろな」
「そのニホンから、どうやってあの森へ?」
「それは……」
神に会って。
異世界に飛ばされて。
魔王を倒してくれと言われました。
「…………」
やっぱりややこしい。
「分からん。気づいたら森におった」
「分からない?」
「うん」
メルがこちらを見る。
「記憶がないの?」
「いや、あるで」
「あるの?」
「日本におったことも覚えてるし、そこで暮らしてたことも覚えてる」
ただ。
自分の名前。
知っていた人たちの名前。
住んでいた場所。
そういうものだけが、妙にぼやけている。
「まあ、ちょいちょい思い出せんことはあるけど」
「それって……」
メルは何かを言いかけた。
だが、やめた。
「何?」
「……なんでもない」
「そう?」
「うん」
メルは再び前を向いた。
アキラもそれ以上は聞かなかった。
アキラがどこから来たのか。
なぜ四十一歳だと言ったのか。
そして――
なぜ、自分が若返ったと言ったのか。
メルには聞こえていた。
気にはなった。
けれど今は。
聞かないことにした。
アキラはそんなことにも気づかず、荷物に背中を預ける。
異世界に来た。
名前も変わった。
身体まで若返った。
金もない。
宿もない。
この世界の常識も知らない。
知り合いだって、ついさっきできたばかりだ。
しかも。
魔王を倒せと言われたのに、今向かっているのは――
犬耳の少女の防具を作ってくれる職人のところ。
「…………」
我ながら、行き当たりばったりである。
それでも。
アキラは揺れる馬車の中で目を閉じた。
「まあ――」
小さく呟く。
「なんとかなるやろ」
今のところ。
だいたい、なんとかなっている。




