Log.7 空を飛ぶこと
クレアさんの名刺はみんなもらっていたので、バックナンバーはいつでも見ることができる。まだ全部は読み終わっていないが、ダーニャが見せてきた場面では大祖国戦争、つまりドイツとの戦いにおいてソ連国内の戦時経済を支えた仕組みへの考察がなされていた。
「ところで例の記事なんだが、俺としては唸らされたポイントはヴォロシーロフ元帥に焦点を当てたことだぜ。今まで知られてた定説じゃ指揮官としてはパッとしないイメージが広まってるが、いつの時代の戦争でも兵站と物資を補給する後方がなけりゃ前線が戦い続けられないってのは変わらねえ」
「なるほど……古本屋で仮想戦記探してざっと立ち読みしてみても、ジューコフやトゥハチェフスキーが活躍する話が多いもんね。ドイツだとロンメルやグデーリアンとかそのあたり」
「あっ、CFでも、アメリカの敗因は、その、補給線っていうの? それを伸ばしすぎたことだって、よく言われてる」
「そういうことだ。後方から装備や弾薬、食糧や衣類に医薬品もだな、そういう諸々の物資を補給し続けられなけりゃ、せっかくの縦深戦術も実現できないわけだ」
「しょっぱなの進撃でウクライナを突っ切るってのも、ミリオタの間じゃそもそも戦争計画に無理があったってのは言われてるしな」
ダーニャとレオンにとっては自国が当事者なわけだから、戦中世代からするとなかなか複雑な関係に見えるかもしれない。
ソ連時代から、ウクライナは東欧有数の巨大な穀倉地帯を抱えてロシアの食を支えたともいわれている場所だ。攻めるドイツ側としてはここを押さえればソ連はすぐさま干上がると踏んでいたわけだが、もちろんソ連だってそう簡単にやられるわけにはいかない。
† † †
嵐が吹く日になると、いつも思い出す。
低く垂れ込めた黒い雲の向こうから、両親が乗った機が再び姿を見せるのではないかと、ミーリャは空に上るたびにかすかな願いを胸に抱いていた。
今日は雲は出ているが、無線の電波を乱すほどの霧氷は無い。
乗り慣れたポリカールポフU-2だが、これはシベリアの故郷で乗っていた機とは違う、軍用偵察機としてしっかり武装された機種だ。
レニングラード軍管区所属の国境警備部隊といえば聞こえはいいが、司令部の建物は丸太を組んだ掘っ立て小屋に近いもので、作戦室の机の上にはいつもウオツカの瓶が置かれていた。
うちの娘と同い年だよと、着任の挨拶に行った時に司令官が笑っていた。
じゃあもしこの部隊に何かがあれば、娘さんが自分と同じ目に遭ってしまう。
軍隊という特別な環境にはきっと不慣れだろうと、和ませるつもりで言ってくれたのかもしれないが、ミーリャはそのように思ってしまった。
「……そうだ……私は、そのために……」
空の彼方から聞こえていた銃声とエンジン音が次第に遠ざかっていく。
戦闘はあらかた片付いたのだろうか。
ミーリャにとって、このような形で空から地面に降りた、要するに墜落したのは初めての経験のはずだが、なぜだか以前にも同じことがあったような気がしていた。
それくらい、生まれたときから、物心ついたときから飛行機とともにあった。
ソビエト連邦アムール州、シベリアの山奥深い村で生まれたミーリャの両親は、シベリア鉄道建設のために派遣されてきた技術者夫婦だった。
何十年も前に空から星が降ってきて、このあたりの土地は言葉を絶するほど徹底的に破壊された。建設途中だった区間でもせっかく敷いた線路が吹き飛ばされ、山が崩れて倒れた木々が転がり、土砂をどかして新たに線路を敷き直すには、途方もない労力が必要とされていた。
初めて操縦桿を握ったのがいつだか覚えていないくらい、当たり前のように空を飛んでいた。
隣の村のパイロットが身体を壊して、乗り手がいなくなった機を譲り受けた。
村を巡回していた若い政治委員も、初めはミーリャが飛ばしていることに気づかなかったので、決められた観測データを収集できていれば何も言わなかった。
孤児になって、ようやくミーリャが一人だけになったことを知って、航空管理局の本局に連絡を取ってくれた。
その時に知った。
両親が帰ってこなかった日、何のために彼らが飛び立っていったのか。
一九三八年九月二十五日、モスクワから無着陸で飛んできた党の記録挑戦飛行隊が嵐に遭遇して遭難するということがあった。ただちに軍の捜索隊や近隣の民間機が出動したが、多数の機が管制もなしに飛び回ったことで二次遭難が多発した。
ミーリャの両親も、その中に含まれていたのだ。
それでも、乗組員が無事救出されたという報道をラジオで聴いて、このことは無事に解決されたと自分の中で整理がついたつもりだった。
両親がいなくなっても、線路が完成して仕事が村の荷物運びに変わっても、自分の役割を果たしていくものだと思っていた。
やがて届いたモスクワからの返事は、士官学校の生徒として迎え入れることができるというものだった。帝政ロシア時代からの伝統ある学校は、今では親を失った子供たちが自分の力で生きてゆけるよう育てる役割も担っている。
ミーリャはそれを承諾し、軍人としての道を歩み始めた。
† † †
ノルドトゥーレとの戦闘で獅子奮迅の遅滞戦闘を繰り広げ、最終的には撃墜されながらも味方歩兵部隊を守りきったミーリャは、丸二日間近くも泥濘の中に埋もれていたという極限環境下で生き延び、後詰めに赴いてきた北部戦線(ソ連軍においては他国の方面軍に相当する最大作戦単位を戦線と称する)の部隊に救出された。
意識を取り戻して初めて口にした言葉が「乗っていた機はどうなったのか」であったことは、担当していた軍医や彼女を見舞った将官を驚かせた。
人民の共有財産である機を失った責任を感じているのかとも思われたが、ミーリャにとっては空を飛べなくなることが何よりも避けたい行く末だった。シベリアの故郷では自分の裁量で飛び回れたが、軍において作戦任務に従う限りはそうではない。
敵機と交戦したり、攻撃対象に向かっていく間だけが生を実感できる。
後送されて学校に戻ったミーリャは、党本部の意向により傷を礼装で隠してただちに叙勲式典に出席した。
レニングラード軍管区からの推薦により、戦功に対する勲章としては最高位となる赤翼星命章が授与された。星の宿命、すなわちツングースカ惨禍に打ち勝った強靭な国家たるソビエト連邦を象徴する功績である。
初めて見下ろすゴーリキー通りの熱狂は、しかし空の上と比べればずいぶん落ち着いている、と感じられた。あるいはまだ少し神経が麻痺していたかもしれない。
治療を早々に切り上げ、ミーリャはすぐにでも復帰可能と申告した。
別に虚勢を張っているわけではない。実際にそのように体感しているだけだ。
今ならどんな機種でもすぐに飛ばせそうにすら感じられるとも思った。
大本営附属の病院で知り合った年かさのパイロットは、ミーリャの歩き方を見てすぐ同類だとわかった、と笑っていた。
空を飛ぶことに適応すると、地面の上を歩くのが下手になるらしい。
「お嬢ちゃん、党では今、凄い新型機を作っているそうだ。なんでも、どんな戦闘機の機関銃にも耐えられるそうだぞ。まるで空飛ぶ戦車さ」
「それは素晴らしいですね。装甲があれば、生還率は高いでしょう」
言ってはみたが、重防御ということは引き換えに運動性は低いはずだ。
U-2の場合は小馬力の複葉機ゆえにそもそもの飛行速度が低く、必然的に失速速度が高くなる近代的な戦闘機ではかえって狙いにくくなる。国境での戦いは、ある意味こちらの方がアドバンテージがあったともとれるのだ。
軍学校で航空理論を学んだことによって、故郷にいた頃は体感だけで飛ばしていた操縦技術に、今では知識による裏付けが備わっている。技術書や専門書はどれだけ読んでいても飽きない。ものごとの理(ことわり)を知るということはとても楽しく、それゆえに教科書に載っている科学者や発明家たちはさまざまな理論を解き明かしてきたのだということがよくわかる。
村の教会でも、人類は地表という二次元の平面だけではなく空という三次元の世界へ考えを向けるべきだという、新たな教えが説かれていた。
アエロフロートに連絡を繋いで軍学校を紹介してくれた政治委員は、都会の方では党と教会が航空宇宙などの様々なアカデミーを設立し、コロリョフやチェレンコフといった科学者たちが活発な議論を交わしていると教えてくれた。
ツングースカ惨禍を黙示録の世界が来たのだとただ恐れるのではなく、科学という人類の力によって乗り越えるべき、また乗り越えることが可能だと信じられる出来事なのだという教えは当時のロシア国民の精神的支柱となっていた。
若い革命家たちの中には聖職者から転身した者も少なくなく、これが現代のソ連最先端科学の一翼を担う存在であることは間違いない。
古いミールの意識が残っていた村でも、おぼろげながらそういう感覚は人々の間に存在していた。
まだ飛行機の主翼に手が届かないくらいに幼かった頃、毎日の仕事に向かう両親はこの大きな木組みに布張りの機械がどうやって飛ぶのかをよく語ってくれた。
落ち葉や板切れを持って実際に空気を受けてみて、これがそうなんだ、と自然に理解できていた。
思えばあの頃から、ミーリャは空を飛ぶことを考えて生きてきたのだ。
† † †
ノルドトゥーレ軍による国境侵犯事件を受けて、大本営は新型襲撃機Il-2の引き渡しを早めるよう命令した。
イリューシン設計局によって開発された本機は高張力鋼をプレス成形したモノコック構造を採用しており、一五〇〇馬力を誇るミクーリンAM-38エンジンとの組み合わせで最高速度四一〇km/hを発揮する。
復帰したミーリャは、モスクワ市内の航空機生産工場に隣接するクルスカヤ陸軍航空隊試験飛行部隊に配属された。
先の戦闘によって近接航空支援の重要性が改めて認識されたため、本機に搭載する大口径機関砲の再検討が行なわれることになったのだ。
「……これが、機関砲ですか?」
格納庫に案内されたミーリャはさすがに目を疑った。
試験機に搭載されていたのは、実に五十七ミリという超大口径を主翼の桁からはみ出させたOKB-16-57だった。構造的には機関砲の体裁を保ってはいるものの、大口径ゆえの反動の大きさから連射速度はかなり遅めに設定されている。
「Il-2の装甲もそうだが、昔から要求としてはあったのだよ。風という無限の力を得て飛ぶ航空機は、火砲のプラットフォームとして最適だとね」
「なかなかぶっ飛んだことをおっしゃいますね、同志シュレーリン技術大佐」
実際に飛んで撃ってみると、これがまた凄まじい反動によって機体が水平に一回転するのではないかという感覚が生じるほどだった。
発砲時にはラダーを目一杯踏み込んで、横滑りさせながら次の射撃姿勢をとる必要がある。構造的には連射が一応可能になってはいるが、実質的には撃てて3発が限度か。砲の精度そのものは高いので、ある程度距離があっても必中を期す撃ち方が可能だろう。
弾の威力があるので、炸裂時の危害半径は従来の機関砲より格段に広い。
使い方次第で戦術的価値を高められそうだというこの新機種の派生型は、国防人民委員部発明局でもかなりの期待を持って進められている。




