Log.3 ツングースカ惨禍
日本海軍にとって、日露戦争の勝利をもたらした三笠の再度の喪失は、その気勢を削ぐに充分過ぎるものだった。
津波の被害を受けた艦は全艦隊の半数以上にのぼり、大気圏を何周も巡った衝撃波は各地に被害をもたらした。
陸軍は各地に部隊を動員し、国民の救援に忙殺されることになった。
この日、世界各地に落下し被害をもたらした小惑星の破片は少なくとも5個以上と推定されている。
各地の住民の証言から、極めて大きな離心率の軌道を持った小惑星が、おそらくは数周回前の太陽への接近の際に潮汐力によって多数の破片に分裂し、ついに地球へ次々と降り注いだのだという理論が後年の天文学者によって提唱された。
当時のシベリアは開発が進んでおらず、本体が落下したのはバレンツ海の沿岸部であると後年の調査により判明するまでは落下地点はツングースカ川流域であると認識されており、これに由来する「ツングースカ惨禍」という呼び名が広まった。
太陽が分裂したように見えた、という証言は、小惑星が太陽とほぼ同じ方向からやってきた、つまり軌道が彗星のように細長い楕円を描き、地球から見た時に太陽からほとんど離れないことを意味する。
また軌道が細長いということはそれだけ太陽に接近するということであり、強烈な太陽の放射を浴びて岩石質成分が蒸発し、硬い鉄のコアだけが残る。
これは大気圏で空気抵抗によって崩壊せず、速度を保ったまま地表に激突したであろうこと、落下地点がシベリア・トラップの露頭部だったことで衝突による塵の飛散が奇跡的に少なく抑えられ、日射の減少による寒冷化が数年間規模で済んだことを示唆している。
衝突の数日前から目撃されていた夜空の光の帯は、太陽の強い潮汐力で既に分裂していた小惑星の破片が、軌道上に漂っていたのだ。
二十一世紀の現代でも、このような軌道を持つ小惑星は観測が困難であり、中には大きさが数キロメートルにも達するようなものがごく最近になって発見されたりしている。
一九〇八年当時の観測技術ではもちろん不可能だ。
ヨーロッパでは、北海を猛烈な勢いで駆け下ってきた津波がドイツやイギリスの海岸に襲いかかった。
ヴィルヘルムスハーフェンで艤装工事中だった戦艦ナッサウは数キロメートルも陸上に押し流され、さらにヴェーザー川を遡上した津波はブレーメンの街に殺到し、進水を翌日に控えていたヴェストファーレンを船台から叩き落とした。
さらにイギリス近海では、ドーバー海峡側とアイルランド側をそれぞれ回り込んできた波がぶつかって激しい三角波が発生し、作戦行動中だったドレッドノートをあっという間に海中に引きずり込んだ。
大西洋を挟んだ向こう側、アメリカでもそれは同じだった。
東部標準時で前日の午後八時過ぎ、太陽はいつも通り西に沈んでいったというのに遠く東の果ての空が輝きはじめ、見物人が海岸にぞろぞろと出てきたその数十分後、デラウエア湾の海面は一気に数メートルも上昇した。
津波はブレーメン同様にデラウエア川を駆け上がり、建造中だった戦艦サウスカロライナおよびミシガンは手のつけられないほどに破壊された。
幸か不幸か、このとき西海岸にいた新鋭戦艦部隊グレート・ホワイト・フリートはピュージェット・サウンド海軍造船所での整備を終えてサンフランシスコに移動するところだった。
デラウエア湾をはじめとした東海岸の都市に甚大な被害が生じたことにより、セオドア・ルーズベルト大統領はアジア・オーストラリア方面への航海を断念、ハンプトン・ローズへの帰還を命じた。
現代においても航海の難所であるマゼラン海峡をやっとの思いで越えて西海岸に到着し、いよいよ世界一周航海に向けて出発しようとしていた矢先のことだ。
わずか三ヶ月前に大々的に宣言した世界一周を、アメリカ大陸から離れることなく中止したという行動は他の列強諸国から様々な感情を含んだ反応を返された。
特に海軍先進国であるイギリスでは、「海の向こうの田舎者が、グレートだかグランドだかと大口を叩いていたが、ちょっと地球が身震いしただけのことに尻尾を巻いて逃げ帰った」だの、「やはり所詮は二流海軍だ」だの、果ては「ホワイト・フリートならぬホワイト・フラッグ(白旗)だ」だのと、それはもう散々な言われようだったらしい。
イギリスの毒舌がなかったとしても、アメリカにとってこの航海の中止は人々が考える以上に重い意味があった。
米西戦争で獲得したばかりのフィリピンや、オーストラリアを始めとした西太平洋および極東アジアに対するプレゼンスを示せなかったという事実は、ここから数十年に渡ってアメリカをじわじわと苦しめていくことになる。
小惑星激突の衝撃は地球の深部までを揺さぶり、ダメ押しのように各地で地震や火山活動を活発化させていた。
小笠原では硫黄島を初めとした火山島が、また数年前より噴火が続いていた中米ニカラグアやカリブ海の島々も激しい噴火を繰り返した。
頻発した地震は当時運河の開通を目指して工事が進められていたパナマ地峡に大規模な土砂崩れを引き起こし、多くの労働者を巻き込んで大西洋、太平洋両岸に泥と溶岩を撒き散らした。
工事に従事していた労働者たちの救出さえままならない中で、調査のために派遣された技術者や科学者たちは、アメリカにとってさらに絶望的な報告をしなければならなかった。
地質学的、土木工学的、および現在の工事技術的に見て、少なくとも今後二百年以内のパナマ開削は不可能である、と。
これにより、アメリカは事実上太平洋への進出ルートを絶たれ、その主力を大西洋に集中せざるを得なくなる。
そう、ここから三十三年後、一九四一年十二月八日までは。
アメリカ機動部隊によるトラック泊地奇襲は、海軍戦略における大艦巨砲主義から航空主兵論への転換点であると同時に、かつて果たせなかったグレート・ホワイト・フリートの夢に対する再挑戦でもあった。
† † †
「だからさ、サラトガの初期スキンのひとつにあったでしょ、トラック奇襲仕様」
「ああ……そう、だったね」
信濃の艦内展示をひと通り見てから、私たちは高まりの丘公園のベンチで海を眺めながらおやつを食べていた。
そういや、少し前にそんな名前の映画があったな? もしアメリカが勝ってたらっていう話。もともとは小説なんだっけ。
「あ、あのさ」
「なに?」
アイリスは頬を赤くしながら言葉を選び、ダーニャは海に向かって釣り竿を振る真似をしている。
「トラック泊地では……その、宣戦布告が、遅れちゃって、それで……だ、だまし討ちだって、言われてたって……授業で聞いたの」
それか。まあ確かに当時は色々あったし、後から公開された情報とか見るとその時その時でやることはちゃんとやろうとはしてたんだろうけど。
当時のアメリカ国務省では官僚主義の硬直化からくる極端な平等主義が蔓延しており、東京のアメリカ大使館に送るはずの宣戦布告文書を重要度に応じた処理ができずに他国あての文書に紛れさせてしまって、布告が届いたのは泊地が空襲された二時間後になってしまった。
こういうのは日本やアメリカ関係なくどんな組織であっても陥る可能性がある問題だと、最近のニュースをネットで読んでいると思うことがある。
「まあ、今となってはだよ。私たちが生まれる何十年も前のことだし、戦争が終わって講和したってことは国としては清算したってことだしさ。それに日本だってマイアミとか言い訳効かないようなことはやっちゃってるし」
アイリスはすっかり恐縮した様子で、売店で買ってきたわたあめを手の甲にくっつけてしまっていたので濡らしたハンカチで拭いてやった。
「そういやあさ、墓が日本にあったってことは、何歳くらいまで生きてたんだ?」
「ちょうど姉貴が生まれた頃だって聞いてる。冷戦が終わって孫の顔を見せに行きたかったけど叶わなかったって、親父は言ってた」
「なるほど、そうなると三十年くらい前か……、ん、ってことはあれ、お前のおやじさんって日本で生まれたのか?」
「そういうことになるな。子供の頃にソ連に連れ戻されて、軍の人たちが色々手を回して身分の保証をしてくれたそうだ」
なにげに結構すごいことなんじゃないか、それ?
冷戦が終わってから、そういうソ連軍の人たちも実は、みたいな話ってちょくちょく出てくるような気がする。その世代だと、まだ対立が始まる前のことを覚えてる人も多かっただろう。
「ルナのこととか俺達がやってるゲームのこと話したら、これ読んどけって姉貴がわざわざコピーしてきてさ」
そう言ってダーニャはショルダーバッグから4人分の紙の束を取り出した。
みんなに配り、ざっと目を通す。
日本のさる有名な戦史研究家が亡命ロシア人に関する記録を集めていて、一九七二年にソ連のエージェントが日本国内で何者かの消息を探していた形跡が……このことなのか?
「そこまではどうだかな。エージェントが探してたっていっても大した活動はしてなかったみたいだし、墓のあるとこも、墓は秋田にあるんだが、別に何かソ連側からちょっかいかけられたとかは無かったっていうから、実際のとこちょっと話聞くとかそんなんだったんじゃねえかな」
「あっ、それでわたしが鳥海山に行くのがちょうどいいってことだったんだ。どうしよう、明日の寝台特急の切符はもう買ってあるんだけど」
「そこは現地合流でいいでしょ。ダーニャたちはうちの車で行く話になってたし」
移動スケジュールの打ち合わせをした時に、実家の叔父さんに頼んで送ってもらった仏間の写真を思い出してその時のメールを探して開く。
仏間に提げられているご先祖さまの額縁の並びのひとつに、実家の近くで当時活動していた飛行クラブの様子を撮影したものがあったのを、エフゲニーおじさんが気づいたのがきっかけだった。
インストラクターのひとりに、ダーニャのお祖母さんがいたのだ。
息子であるエフゲニーおじさんの記憶と、ダーニャの家にあったアルバム、これはソ連に連れ戻された時に隠し持っていたフィルムをプリントしたものなんだけど、それと照らし合わせて間違いなく本人だろうとなって、今回のオフ会では秋田に行くことが決まったというわけだ。
ダーニャのお祖母さん、ミーリツァ・ヴァシーリエヴナ・ゼリョーノワは、ソ連空軍のパイロットとしてイリューシンIl-2に乗り、ドイツ軍と戦っていた。




