第九話 馬車の中
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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馬車が侯爵家の門を出た。
石畳の振動が車体に伝わってくる。蹄鉄が石を叩く音が一定のリズムで続く。アイリーンは背もたれに軽く寄りかかり、窓の外を見た。
門扉が流れていった。侯爵家の外壁、そして塀の角。通りに出ると、石畳の街並みが始まった。朝の王都は静かだった。まだ早い時間で、商人たちが荷を並べ始めているが人の往来は少ない。馬車はゆっくりと大通りを進んだ。
アイリーンは窓の外の前方だけを見ていた。後ろは振り返らなかった。
(振り返る理由がない。)
そう思った。侯爵家の建物の角が視界の端を通り過ぎても、首を動かさなかった。引継書は渡した。帳簿は整えた。ヨハンに伝えることは伝えた。あとは次の担当者の仕事だ。アイリーン・ローウェンがあの財務室で担っていた八年間は、昨夜の時点で終わった。今朝の引継ぎで完全に閉じた。
足元にトランクが置いてあった。小さかった。
一つに収まった荷物を、改めて確認した。八年分の生活がこれだけとは——と思うが、考えてみれば当然だった。毎日の仕事が財務室にあった。帳簿があった。羽ペンとインク、計算用の道具、整理のための棚。それらはすべて侯爵家のものだった。アイリーン自身の持ち物は、着るものと父の手紙と、あとは頭の中にある知識だけだった。
馬車が大通りの角を曲がった。街並みが変わった。
ヨハンの言葉が、もう一度頭に浮かんだ。
「申し訳ありませんでした」
どれほどの重さがその言葉に込められていたか、アイリーンは受け取っていた。謝罪の理由は一つではなかった。八年間を通じて積み上がったものが、あの一言に収まっていた。
あの言葉に対して「ヨハン様がお気になさることは何もございません」と答えた。正直な言葉だった。後悔はない。ただ——「ありがとうございました」という言葉が出かけて、出なかった。それだけが、馬車の中でまだ頭の中にあった。
(なぜ出なかったのだろう。)
感謝する気持ちがなかったわけではない。ヨハンが誠実な人物だという確認は、八年間の積み重ねの中にある。最後の朝に馬車を手配していてくれた。それを知ったとき、小さな暖かさがあった。
ただ、「ありがとう」という言葉そのものが、口から出てくるのに慣れていなかった。仕事の中に感謝を込める、という形しかしてこなかった。丁寧に引継書を書くことが感謝だった。帳簿を正確に残すことが礼儀だった。言葉で言う機会が、なかった。
馬車が橋を渡った。川が光を返して輝いていた。
父への手紙を書こうと思っていた。宿についたら書く。文面を頭の中で組み立て始めた。
「ご心配をおかけしました」——書き出しはこれでいい。父は心配する人ではないが、挨拶として書く。「婚約を解消することになりました」——事実の報告。「体は変わりなく、荷物も整えて出発しました」——現状報告。「次のことを考えています」——これは今のところ本当のことだ。何かを考え始めている。まだ形はないが、「何もない」わけではない。
(次のこと。)
何ができるか、という問いは静かにあった。侯爵領の財務一式を動かしてきた。農業税の管理、商業税の試算、家臣の人件費の最適化、予算計画——八年で培ったものを生かせる場所が、どこかにあるはずだった。正式な役職として、報酬のある形で。それは当然のことだと思っていた。
荷物の底に、辺境税制の改革案メモが入っている。昨年の冬から少しずつ書き続けた考察。誰に見せるつもりもなかった。ただ「いつかこの問題を本格的に解きたい」という気持ちで書いてきた。越境商人が多い辺境では、通常の徴収方式が機能しない場面がある。その解法を考えるのが、純粋に楽しかった。
解きたい問題が、手元にある。
(どこかで、使える日が来るかもしれない。)
具体的な見通しはなかった。ただ、何もないよりは一つの方向性だった。
馬車の窓から、空が見えた。春の高い空だった。王都の屋根の上で、雲が白く流れていた。
次の宿はどのあたりになるだろう。父の屋敷まで馬車で三日はかかる。道中、景色が変わっていく。王都の石畳の街並みが、郊外の緑の野に変わり、やがて父の家のある静かな丘陵地に変わる。何年ぶりにその景色を見るだろう。
馬車が街の外れに差しかかった。建物が少なくなり、空が広くなった。
アイリーンは窓の外を見続けた。後ろを向こうとは思わなかった。前の景色だけを見ていた。まだ次がどこにあるかわからなくても、前に向いていれば着くはずだった。そのことを、今は確かだと思っていた。
*
最初の宿についたのは夕刻だった。
部屋は小さかった。窓から外を見ると、街道が細く続いている。旅人と商人が何人か歩いていた。アイリーンは机の前に座り、便箋を一枚出した。
父への手紙を書いた。
「ご心配をおかけしました」という書き出しから始めた。事実の報告を短く書いた。婚約が解消になったこと。体は変わりないこと。侯爵家の財務は整えて引き継いだこと。次のことを考えていること。
最後の一文を書いてから、少しペンを止めた。
「次のことを考えています」と書いたが、具体的なことは何も書けなかった。まだ何も決まっていないから、書けなかった。父は問い詰めないだろう。心配はするかもしれないが、急かすことはしない人だ。「わかった」と言って待ってくれるだろう。それがわかっているから、曖昧なまま送っても大丈夫だと思った。
手紙を折りたたみ、封をした。
翌朝、御者に頼めば王都への連絡に出してもらえる。父の手元に届くのは数日後になるが、それでよかった。到着してから届いても、同じことだ。
机の上にトランクを開けて、覚書を一枚取り出した。辺境の税制問題についての考察の続きを、旅の途中で少し書こうと思っていた。
ペンを持ったが、すぐには書かなかった。
窓の外の街道を、また旅人が一人通った。
(次の場所が、どこかにある。)
その確信だけはあった。具体的な宛先はまだないが、方向性はある。自分の仕事を正当に評価してくれる場所が、どこかにあるはずだった。王都の社交界の外に、そういう場所があるかもしれない。
ペンを走らせた。覚書の続きを書き始めた。燭台の炎が揺れた。夜が来ていた。




