第八話 申し訳ありませんでした
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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引継書の説明が終わったのは、朝の光が財務室をまっすぐ照らし始めた頃だった。
ヨハンは引継書を閉じ、机の上に置いた。丁寧な動作だった。急いでいない。それでも、何かを言わなければという緊張が、静かな部屋の中に漂っていた。
「ヨハン様」
アイリーンが先に口を開いた。「説明は以上です。次の方がいつ財務棟においでになるかわかりませんが、この引継書と各帳簿の索引を参照していただければ——」
「ローウェン様」
ヨハンが遮った。静かに、しかしはっきりと。
アイリーンは言葉を止めた。
ヨハンが頭を下げた。深く、ゆっくりと。白髪交じりの頭が机の上の引継書と同じ高さまで傾いた。
「申し訳ありませんでした」
室内が静かだった。
アイリーンは動かなかった。ヨハンの言葉の重さを、静かに受け取った。謝罪の言葉には何層かあった——この八年間で認められなかったこと、去ることを誰も引き留めなかったこと、婚約破棄の夜にヨハンは執事室に控えていたはずで、何もできなかったこと。すべてが一言に込められていた。
(ヨハン様は、わかっていた。)
ずっとわかっていたのだと思う。毎朝財務棟の灯りがついていることを。帳簿の量が毎年増えていくことを。アイリーンが一人でやり続けていることを。ただ、それを「口にする立場ではない」と思っていたのかもしれない。執事は侯爵家の者で、婚約破棄を止める権限など持っていない。
「ヨハン様がお気になさることは何もございません」
静かに言った。正直な言葉だった。ヨハンを責める気持ちは、ない。責めても意味がない。ヨハンが何かを変えられる立場でなかったことは、アイリーン自身がよくわかっていた。
ヨハンが顔を上げた。
「……私は、ローウェン様がここで何をなさっておられたか、もっと早くに正確に把握するべきでした」
「侯爵家の財務を正式に担当していたわけではございません。私が自分で手を出したことです」
「それでも」
ヨハンが静かに続けた。「これほどの仕事が、誰にも正式に認められることなく——」
「認められることが目的ではありませんでした」
アイリーンは柔らかく言った。それも本当のことだった。帳簿が正しく動いていれば十分だった。侯爵家の財務が正確であれば、それで仕事になっていた。認められなくても、数字は誠実に積み上がっていた。「それで十分だった」と今も思っている。
ただ——と、アイリーンは内心で思った。
(十分だったと思っていた。ずっと。)
思っていたことは確かだった。しかし今、ヨハンが頭を下げて「申し訳ありませんでした」と言った。それを受け取ったとき、何かが静かに緩んだ気がした。「一人でよかった」と思っていた八年間の端に、ヨハンの謝罪がそっと触れた。
「ヨハン様には、ありがと——」
言葉が途中で止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。「ありがとうございました」という言葉は、次に続くはずだった。しかし出なかった。八年間、誰かに感謝を言葉にするという習慣がなかった。「感謝しているなら仕事を丁寧にすればいい」という判断が染みついていた。
「……ヨハン様が誠実な方だということは、存じておりました」
代わりに、そう言った。感謝ではなく、確認だった。でもそれが、今アイリーンに言える精一杯だった。
ヨハンが少し目を細めた。
「お荷物は」
「トランク一つです。馬車の手配をお願いできますでしょうか」
「すでに手配してございます。昨夜のうちに」
アイリーンは少し驚いた。ヨハンが、表情を動かさずに続けた。
「昨日の夜から財務室の灯りがついておりましたので。今朝には出立されるのではないかと」
(この方には、見えていた。)
そういうことだった。昨夜、深夜から朝まで財務室で作業していたことを、ヨハンは知っていた。だから馬車を手配していた。何も言わずに。
「……ありがとうございます」
今度は出た。静かな言葉だったが、出た。
ヨハンが一礼した。
アイリーンは引継書の束が置かれた机をもう一度見た。書類が整然と重なっている。帳簿の山が棚にある。この部屋に二度と来ることはないだろう。それでいい、と思った。
*
執事室に戻ったヨハンは、引継書の束を机の上に置いた。
アイリーンが玄関の方へ歩いていく足音が遠ざかっていく。静かになった。
束の中に、薄い紙の重なりがあった。引継書と一緒に紛れていたものだった。束の表に几帳面な字が並んでいる——「辺境税制改革案・覚書」という文字が読めた。
ヨハンはそれをしばらく見た。引継書ではなかった。財務室の管理資料でもなかった。ローウェン様が別に作っておられた何かだった。
(この書類は——どこに届けるべきか。)
静かに考えた。アイリーンはもう玄関にいるだろう。今さら追いかけても、馬車がすでに待っている。しかしこれを財務室の帳簿と一緒にしておくわけにもいかない。
玄関の方から、かすかに扉の音がした。
ヨハンは束を手に取ったまま、立っていた。窓の外を馬車が動き始める音が、遠くから聞こえた。
この書類は、どこかへ届けるべきだ。財務室の引継書に紛れていた以上、それなりの価値があるものに違いない。ヨハン自身には税制の細かいことはわからなかった。しかし、書きぶりから判断するに——これはただの覚書ではなかった。
辺境、という言葉が目に入っていた。
(辺境公爵家との縁は、まだある。)
去年、商会を通じた取引の文書を辺境公爵家と交わしたことがあった。接点は細いが、なかった話ではない。この書類を転送できる可能性が、まったくないわけでもなかった。
ヨハンは静かに引継書の束と覚書を分けた。覚書を机の引き出しにしまった。
馬車の音はもうしなかった。




