第七話 執事室のヨハン
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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執事室の扉は少し重かった。
アイリーンが軽くノックすると、「どうぞ」という低い声が返ってきた。扉を開けると、ヨハンが机の前に立っていた。白髪交じりの頭を少し傾けて、書類を手に持ったまま視線を上げた。
「ローウェン様」
穏やかな声だった。五十五歳、侯爵家で三十年以上仕えてきた執事頭。アイリーンがこの屋敷に来てから八年、財務室の存在を知っている数少ない人物だった。
「ヨハン様。朝早くに失礼いたします。帳簿の引継ぎについて、お話しできますでしょうか」
「もちろんです」
ヨハンが書類を机に置いた。「いつでも」という声の響きに、落ち着きがあった。何かを予期していた様子ではなかった。ただ、いつものようにアイリーンの話を聞く準備ができているという佇まいだった。
「財務棟においでいただけますか。帳簿の場所と、引継書の内容をご説明したいと思います」
「……わかりました」
少しだけ間があった。ヨハンが何かを感じたのかもしれなかったが、表情には出なかった。
*
財務棟の扉を開けたとき、ヨハンは足を止めた。
帳簿の山が目に入った。棚に整然と並んだもの、机の上に積み上げられたもの、床の箱に入ったもの——部屋の四方が帳簿と書類で埋まっていた。燭台の光は今朝は不要だった。春の朝の日が窓から差し込んで、背表紙の文字を読めるだけの明るさがあった。
「これは……」
ヨハンが室内を見渡した。言葉が途中で止まった。
「八年分の財務記録と、引継書です」
アイリーンが静かに言った。「棚の分類はこのように整えてあります」と続けながら、手近な棚を示した。「年度別、費目別に整理されています。表紙の色でおおよその種別がわかります——青みがかったものが税収記録、薄茶が支出管理、白が債務の記録です」
ヨハンはまだ室内を見ていた。
一歩踏み込んで、机の上の引継書を手に取った。表紙を確認し、開く。最初の一ページを読んで、黙った。
アイリーンは待った。
「……ローウェン様がおひとりで?」
低い声だった。驚きというより、確認を求めるような問いだった。
「はい」
「八年間、ずっと」
「はい」
ヨハンがまたページをめくった。二ページ目。三ページ目。精密な財務スケジュール、商人との取り決め一覧、注意すべき費目の説明——読むのに時間がかかる内容だった。ヨハンはゆっくりと読み進めた。
アイリーンはそのまま待ちながら、棚の説明を続けた。どの帳簿がどこにあるか、索引の見方、季節ごとの作業の流れ——必要なことを淡々と話した。ヨハンが引継書を手に持ったまま聞いていた。
「こちらの索引を使うと、どの帳簿の何ページを見ればよいかがわかります。費目の変遷については、各帳簿の表紙裏に経緯を書き添えてあります。引継書の四ページ目に過去の問題点と対処法をまとめています。特に、支出の二重計上についての記録は——」
「ローウェン様」
ヨハンが静かに遮った。
アイリーンが言葉を止めた。
ヨハンは引継書を手に持ったまま、少し下を向いていた。顔が見えなかった。
「この帳簿を……どれほど精密に管理されていたか、私は存じ上げませんでした」
穏やかな声だった。しかし、何かを押さえているような重さがあった。
「財務室に来られているのは知っておりました。仕事をされているのも知っておりました。しかし——」
ヨハンが口をつぐんだ。引継書の五ページ目をもう一度見た。
「これほどのものを、一人で」
机の上に引継書を静かに置いた。視線が帳簿の山に向いた。棚にぎっしりと並んだ背表紙。床の箱の中の束。「これを全部、次の担当者がひとりで理解できるか」という問いが、そのまま表情に出ていた。
アイリーンはそれを静かに見ていた。
(あの方は、わかっている。)
驚きではなかった。ヨハンは三十年以上この屋敷を管理してきた人物だ。帳簿の規模を見れば、何が行われていたかの見当はつくはずだった。ただ、実際に目の前にするまでは——という距離があっただけで。
「次の方が困らないよう、できるだけ説明を添えてあります」
アイリーンは淡々と続けた。「引継書だけでなく、各帳簿の余白にも注記してあります。不明点が出れば、索引と照合すれば大抵わかるかと思います」
ヨハンが顔を上げた。何か言いかけた。
言葉は出なかった。代わりに、書類の束をもう一度手に取った。丁寧に、何かを確かめるように。束の一番下の紙が少し飛び出ていた——薄い紙の束が、引継書の下に混じっていた。ヨハンがそれを気にする前に、アイリーンが次の棚の説明に移った。
「こちらの棚の下段には、今年度の帳簿が入っています。秋の収穫期の集計がまだ確定前ですが、見通しの試算は別紙に入れてあります」
説明を続けた。ヨハンは聞きながら、もう一度引継書に視線を落とした。
財務室の中に朝の光が静かに差し込んでいた。
説明が一区切りついたとき、ヨハンが口を開いた。
「侯爵様は——ロラン様は、この財務室をご存じでしたでしょうか」
問いは穏やかだったが、問いかける目に何かが揺れていた。
「存じ上げません」
アイリーンは答えた。嘘ではなかった。ロランが財務室に入ったことがあるかどうか、確認したことがなかった。ただ、一度も帳簿の話をしてきたことがないのは確かだった。
「そうですか」
ヨハンが小さく言った。それだけだった。それ以上は続けなかった。
代わりに、棚の一冊を引き出してページを開いた。丁寧な手つきだった。八年前からある最初の帳簿ではなく、今年度のものだった。数字の列を目で追いながら、何かを確認するような動きだった。
(この方は、これを読める。)
アイリーンはそう思った。執事頭として長年屋敷を管理してきた。帳簿の見方を知らないはずがない。ただ、財務室の扉が自分の管轄外だという認識があったのかもしれない。「婚約者様がやっておられる仕事」という認識が、距離を置かせていたのかもしれない。
どちらでもよかった。今は引継ぎが終わることの方が大事だった。
「最後に」とアイリーンは言った。「来期の予算見通しについては、引継書の末尾に試算を入れています。農業税の収穫前試算が一つ、商業税の概算が一つ、臨時支出の見通しが一つ——三つの数字を合わせれば、大まかな来期の予算規模がわかります」
「承知いたしました」
ヨハンが静かに言った。帳簿を棚に戻した。「ローウェン様」と続けた。
「何でしょう」
「申し訳——」
声が途中で止まった。
アイリーンはヨハンを見た。ヨハンはまっすぐ前を向いていなかった。少し俯いて、次の言葉を探しているような間があった。
「……後ほど改めて。今は引継書の確認を」
ヨハンが静かに言い直した。アイリーンは頷いた。
何を言おうとしたのか、わかった気がした。しかし今は聞かなかった。引継書の説明が終わっていなかったし、ヨハンが言葉を選んでいる間に押し込む必要もなかった。
棚の最後の説明に移った。帳簿の光が窓の外で少し強くなった。朝が深まっていた。




