第六話 朝の支度
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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夜が明けても、アイリーンの部屋はまだ暗かった。
カーテンを開けると、春の朝の光が薄く差し込んだ。八年間、何度この光を見ただろう。帳簿に向かいながら空が白むのを何度も見送ってきた。今朝は逆だった。朝から始めて、去るまでに終わらせなければならない。
トランクを床に広げた。
まず、ドレスを確認した。夜会用のものと、日常着。数えると全部で六着だった。八年間で、ここに増えた衣服はそれだけだった。婚約者の家に通い続けた八年間で、六着。
(少ない。)
そう思ったが、不思議と驚かなかった。何かを買い足す機会があるたびに、「別に今でなくていい」と後回しにしていた。仕事が忙しかったし、衣服より帳簿の方が気になった。侯爵家に来るのは仕事のためで、夜会の席で目立ちたいという気持ちもなかった。結果として、荷物が少ない。
丁寧にたたんでトランクに入れた。
机の引き出しを開けた。中には書類の束があった。財務の分析メモ、計算の下書き、侯爵領の農地分布の手書き図——すべて仕事に関するものだった。持ち帰る必要はない。これらは侯爵家の財務に属するものだ。引継書の束と一緒に、財務室に置いてくれば十分だろう。
束をまとめて机の上に置いた。
次に、棚の上の手紙入れを確認した。父からの手紙が、何年分か重なっていた。薄い束だった。父は手紙が得意ではなかった。一通一通が短く、要点だけ書かれていた。「元気か」「商会の件は落ち着いた」「今年の収穫は良さそうだ」——感情のない文体で近況だけ書かれた手紙が、何枚か重なっていた。
これは持っていく。
丁寧に紙で包んで、トランクの底に入れた。
棚の最上段に、薄い紙の束があった。昨年の冬から書き始めた覚書——辺境の税制問題についての考察だった。引継書を書くとき、ふとその束に目が行った。返す必要はない。侯爵家の仕事ではなく、余暇に自分で書いたものだ。しかし荷物に入れるべきかどうか、少し考えた。
こんな辺地の問題を分析しても、今すぐ役に立つわけではなかった。引継書の束に混じれば、次の担当者が困惑するだけだろう。別にしておかなければ——そう思って手を伸ばした瞬間、廊下で使用人の足音がした。
「失礼いたします、ローウェン様。朝食のご用意ができております」
「ありがとうございます。少し後にいただきます」
扉越しに答えた。足音が遠ざかる。
アイリーンは覚書の束を手に取った。十数枚、薄くてかさばらない。財務室に置いていけば引継書の山に紛れるかもしれない。持ち帰れば荷物の中で邪魔になる。
(……これは自分のものだ。)
決めた。荷物に入れる——束をたたみながら、最初の一枚が机の端にするりと落ちた。財務室の帳簿最終確認もまだある。後で戻ってきたときに回収すればいい、とそのまま残してきた。束の大部分は父の手紙の隣に押し込んだ。
部屋を見渡した。
八年分、とは思えない静けさがあった。何かが残っているという感覚がない。本来ならば思い出の品が増えていくはずの部屋だったが、アイリーンは仕事以外のものをここに持ち込まなかった。仕事があれば十分だったし、仕事が終われば休む。それだけの場所だった。
机の上に、財務の分析メモをまとめた束を置いた。財務室に運ぶとき一緒に持っていけばよい。
床に立ったまま、もう一度だけ部屋の中を確認した。
忘れ物がないか——ではなかった。「残していいものだけを残す」確認だった。侯爵家のものは引継書と帳簿の形で財務室に整えてある。自分のものはトランクに収まった。部屋は、最初に来たときと同じ状態に戻っていた。
(これでいい。)
トランクを閉じた。留め金をかけた。思ったより軽かった。
廊下に出ると、朝の光が窓ガラスを通して床に伸びていた。使用人が一人、廊下の先で掃除をしていた。アイリーンが出てきたのを見て、軽く会釈をした。「おはようございます」という声と、すぐにまた掃除に戻る音。何も変わらない朝だった。
「何かご用ですか、ローウェン様」とは誰も言わなかった。
(当然だ。私がここで何をしていたか、この方はご存じないのだから。)
財務棟の方角へ歩きながら、アイリーンはそう思った。使用人たちがアイリーンを「婚約者様」として認識していたのは確かだ。しかし「帳簿をほぼ全部管理している」という事実を知っていた使用人は、おそらく誰もいなかった。財務室は静かで、誰も用事のない部屋で、アイリーンはそこに一人で通い続けてきた。
渡り廊下を抜けた。財務棟の扉を開ける。昨夜の作業の名残りが残っている——帳簿の山と、一番上に置かれた引継書の束。
アイリーンは手に持っていた財務分析のメモを、引継書の束の横に置いた。これも一緒に渡せばよい。
それから、執事室へ向かうことにした。
ヨハン様に、帳簿の引継ぎをお願いしなければならない。あの方だけは、きちんとお話しできる。
財務棟の扉を閉める前に、もう一度だけ部屋の中を見た。
帳簿の山が窓の光を受けて、背表紙の色ごとに光の濃さが違っていた。青みがかった表紙、薄茶の表紙、白い表紙——全部アイリーンが設計した分類だった。これが八年分の仕事だ、とは改めて思わなかった。帳簿はただそこにある。そしてアイリーンは去る。それだけのことだった。
扉を閉めた。
廊下を歩きながら、「次の場所」という言葉が頭に浮かんだ。まだ形がない。父の屋敷に戻って、それから考えるしかない。どこかで財務の仕事ができれば、それでいい。正式な役職がついて、報酬があって——そういった当たり前のことが、ここではなかった。次の場所では、そうでなければ困る。
(困る、というほどのことか。)
自分でも、少し不思議だった。困ると思っていなかった。ただ、「当然そうあるべき」という感覚はある。仕事には正当な評価がある。それだけだ。
執事室の扉が見えた。廊下に朝の光が伸びていた。
そう思いながら廊下を歩いた。足音が静かな屋敷に響く。春の朝の光が、渡り廊下の窓から差し込んでいた。




