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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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10/70

第十話 父の家への帰路

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 三日目の午後、景色が変わり始めた。


 石畳の街道から、土の道に変わった。両側に木々が立ち並び、春の若葉が光を遮って緑の影を作っている。馬車の揺れ方が少し違った。王都の舗装された道より、地面の凹凸がそのまま車体に伝わってくる。


 アイリーンは窓の外を見ていた。


 父の家のある丘陵地が近づいている。王都から三日、この変化が来れば残り半日ほどだった。何年ぶりに見る景色か——数えてみたが、よく思い出せなかった。侯爵家にいる間も、年に一度か二度は帰ってきたはずだった。しかし毎回「戻ったら続きをしなければ」という思いがあって、風景をゆっくり見る余裕がなかった。


 今は、帰るべき仕事場がない。


 だから窓の外を、久しぶりにゆっくり見ることができた。


 三日間、覚書を少しずつ書き続けた。辺境の税制問題についての考察だった。越境商人が通常の徴収方式では捕捉されにくい問題——その根本をどう解決するか。宿の机で書き、馬車の揺れの中でも書いた。頭を動かしていると落ち着いた。問題を解くことが楽しかった。それはいつも同じだった。


 荷物の中に、今や十数枚にふくらんだ覚書が入っている。


(この問題を、本格的に使える日が来るだろうか。)


 具体的な見通しはなかった。辺境に知り合いがいるわけでもない。ただ、「誰かに役立つかもしれない」という感覚は、書くたびに少し強くなっていた。


 馬車が丘の上に差しかかった。遠くに小さく、屋敷の屋根が見えた。


 アイリーンの目が、そちらに向いた。


 ローウェン伯爵家の屋敷は大きくない。中堅の伯爵家らしい、実用的な造りだった。庭に木が二本あって、この季節には白い花が咲くはずだった。遠すぎてまだ見えないが、花の季節なら咲いているだろう。


(帰れる場所がある。)


 その事実が、静かに胸にあった。怒りでも悲しみでもなく、ただそれだけが確かだった。


 門が近づいてくると、石畳の小道が見えた。その先に屋敷の玄関がある。馬車が速度を落とした。御者が「まもなく到着でございます」と声をかけてきた。


「ありがとうございます」


 アイリーンは答えて、荷物をまとめた。トランクひとつ。それが全部だった。


 門をくぐった。庭の石畳を馬車がゆっくり進む。玄関の扉の前に、使用人が一人立っていた。アイリーンの顔を見て、小走りに近づいてきた。


「お嬢様、ご無事で。長旅でございましたね」


「ただいま戻りました」


 馬車を降りながら言った。使用人が手を添えてくれた。石畳に足をつけると、久しぶりに「地面がある」という感覚があった。三日間の馬車の揺れが残っていた。


「旦那様は書斎にいらっしゃいます。お嬢様が来られることは昨日のうちにお伝えしてあります。すぐにいらっしゃると思いますが、少しお待ちになりますか」


「いいえ、こちらから参ります」


 玄関の扉が開いた。慣れた家の匂いがした。石と木と、炉の燻った残り香。何年も変わらない匂いだった。


 廊下を歩いた。書斎は奥の右側だった。迷わずに着いた。


 扉の前に立ったとき、中から足音がした。


「アイリーン」


 父の声だった。扉が内側から開いた。マルセル伯爵が、書類を手に持ったまま出てきた。五十二歳、白髪が増えたが背筋は昔と変わらず伸びていた。


 父は一瞬、アイリーンの顔を見た。それだけで、何かを確認した様子だった。


「戻ったか」


「はい。遅くなりました」


「入れ」


 父が少し脇に引いた。アイリーンは書斎に入った。窓の外に庭が見えた。白い花が二本の木に咲いていた。やはりまだ花の季節だった。


「手紙は受け取った」


「はい。昨日お着きになったかと」


「昨日着いた」


 父が椅子を引いた。自分の席に戻るのではなく、アイリーンに向けて椅子を出した。座るようにという意味だった。アイリーンは荷物を床に置き、椅子に腰かけた。


 父が向かいに座った。書類を机の端に置いた。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 父は急かさなかった。話を求めなかった。ただ、アイリーンが話す準備ができるのを待っていた。この人は昔からそうだった。問い詰めない。待つ。そして必要なことだけを言う。


「明日、話がある」


 父がやがて言った。


 アイリーンは父の顔を見た。何かを決めた顔だった。今すぐ話すのではなく、一晩置いてから話すことにしているという顔だった。


「今日は休め」と続けた。「三日の旅だろう」


「……はい」


「夕食は一緒に食べよう。それだけでいい」


 短い言葉だったが、それだけで十分だった。


 アイリーンは小さく頷いた。窓の外の白い花が、風に少し揺れていた。


   *


 夕食は二人で食べた。


 父は多くを話さなかった。食事の間、窓の外の庭について短く言った。「今年は花が早かった」それだけだった。アイリーンも多くは話さなかった。疲れていたし、今日の話は「明日」と父が言った。余計なことを言う必要はなかった。


 食事の後、自分の部屋に戻った。


 子どもの頃からの部屋だった。棚の上には父から借りた本が何冊かまだ残っていた。窓から見える庭の木は、夕暮れの中で輪郭だけになっていた。


 机の前に座り、覚書を取り出した。旅の途中で書いた続きがある。あと何ページか書けば、問題の骨格が見えてくる気がしていた。越境商人への課税方式の再設計。通常の徴収に収まらない商取引を、どう正確に捉えるか。


 ペンを手に取ってから、少しだけ考えた。


(明日の話が何か、わからない。)


 父が「話がある」と言うとき、軽い話ではない。何かを決めてから言う人だ。アイリーンの婚約破棄について何か話があるのか、それとも別のことか——どちらとも取れた。


 でも今夜考えても仕方がなかった。明日になれば聞ける。今は覚書の続きを書く方が、頭の落ち着く使い方だった。


 ペンを動かした。数字と仮説が羊皮紙に並んでいく。燭台の炎がゆっくりと燃えた。屋敷の中は静かだった。王都の屋敷とは違う静けさだった。こちらの方が、自分の静けさに近い気がした。


 「次のことを考えています」と父への手紙に書いた。今もそれは本当だった。

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