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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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11/70

第十一話 父の書斎

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 翌朝、父は書斎にいた。


 朝食を終えてから、アイリーンは書斎の扉をノックした。「どうぞ」という父の声がした。机の前に座ったマルセル伯爵は、手紙を数通手に持っていた。アイリーンが入ると机の上に置いた。


「昨夜は休めたか」


「はい。よく眠れました」


 父が椅子を示した。アイリーンは向かいの椅子に腰かけた。昨日と同じ配置だった。窓の外の庭に朝の光が当たっている。白い花が昨日よりも明るく見えた。


「昨日の続きを話そう」


 父が静かに切り出した。急かす様子はない。淡々とした口調だった。


「婚約の件は聞いた。どう経緯があったか、少し教えてもらえるか」


「夜会でロランから申し渡されました。地味すぎる、侯爵家には華やかな令嬢の方が相応しいと」


 事実だけを言った。父がそれを聞いて何も言わなかった。表情が変わらなかった。静かに、ただ聞いていた。


「侯爵家の財務は整えて引き継いできました。帳簿の索引を作り、引継書を五枚書きました。次の方が最初の一週間で困らないように」


「……そうか」


 父がゆっくり言った。「よくやった」とは言わなかった。しかし、その「そうか」の一言に何かが入っていた。アイリーンはそれを静かに受け取った。


「私は動じていません」


「見ればわかる」


 父が短く言った。それだけだった。怒りも慰めも出てこなかった。アイリーンが動じていないことを確認し、それを「そうか」と受け取る。それが父の流儀だった。


 机の上に、数通の手紙があった。視線が自然に向いた。封筒の文字が、父の字ではなかった。知らない筆跡だった。


「それについては、後で話そう」


 父が手紙に視線を向いたアイリーンを見て言った。「まず、今のことを聞かせてもらいたい」


「今のこと、と言いますと」


「これからのことだ」


 父が机に肘をついた。「しばらくここにいなさい。急ぐことはない」


 その言葉に、アイリーンは一瞬、何かが緩む感覚があった。


(急がなくていい。)


 そう言ってくれる人が、今の自分にはいなかった。侯爵家では常に「次の季節の試算が」「来月の集計が」という切迫感があった。自分でそれを作っていた部分もある。しかし帰れる場所があって、急がなくていいと言ってくれる人がいる。


「ありがとうございます」


 短く答えた。短くしか答えられなかった。それ以上の言葉が、うまく出てこなかった。


 父が頷いた。


「お茶が来るだろう。少し待て」


 そう言いながら、机の上の手紙を一つ手に取った。何かを確認するように見ていた。アイリーンはその手紙が気になったが、今は聞かなかった。父が「後で」と言ったのなら、後でいい。


 しばらく静かだった。


 お茶が運ばれてきた。使用人が二つのカップを置いて、静かに出ていった。父がカップを手に取った。アイリーンも取った。


 朝の書斎は、静かで明るかった。子どもの頃からずっと変わらない部屋だった。棚に並んだ本の背表紙。窓枠の形。床の木の張り方。どれも昔のままだった。


(帰れた。)


 という感触が、今更のように来た。昨日来たときにも感じた。しかし今、父と向かい合って茶を飲んでいる時間の中でより静かに確認できた。帰れる場所がある。急かされない場所がある。


「急ぐことはない」と父が言った。


 しかし机の上の手紙は、次の場所への入り口になるかもしれなかった。それがまだ何かはわからなかった。


「大事な話というのは——」


「明日、ゆっくり話そう」


 父が穏やかに遮った。「今日は一日、何もしなくていい」


 アイリーンは少しだけ迷って、頷いた。


 窓の外で風が通り、白い花が揺れた。それを見ながら、茶を一口飲んだ。少し甘かった。父の屋敷では茶にいつも少し蜂蜜が入る。子どもの頃からの習慣で、アイリーンはそれが好きだった。


 そのことを思い出したのは、久しぶりのことだった。


   *


 その日は本当に何もしなかった。


 午前中は庭を少し歩いた。父の屋敷の庭は広くないが、手入れが行き届いていた。白い花の木の下を通ったとき、花びらが一枚落ちてきた。アイリーンはそれを手の平で受けた。柔らかかった。


 昼食も父と二人で食べた。会話は少なかった。「庭は変わらないな」と父が言った。「はい」とアイリーンが答えた。それだけで、あとは静かだった。静かなことが、苦痛ではなかった。


 午後、部屋に戻って覚書の続きを少し書いた。辺境の税制の問題は、書き続けるたびに解法の輪郭が見えてくる気がした。父の屋敷の机は財務室の机より小さかったが、窓の向きがよかった。西向きで、午後の光が柔らかく差し込んだ。


 日当たりがいい場所で仕事をするのが好きだった。


(そういえば財務室には、日当たりのいい席がなかった。)


 八年間ずっと気にならなかったのか、それとも慣れていたのか。どちらかはわからなかった。


 夕食の後、父が書斎に戻る前に一言言った。


「今日、手紙を一通書いた」


「はい」


「返事が来るのに少し時間がかかる。それまでは休んでいなさい」


 父がそれだけ言って書斎に入った。扉が閉まった。


 アイリーンは廊下でしばらく立っていた。


(手紙。どこへの。)


 聞けばよかったかもしれない。しかし父が「後で」と言っているのなら、後でわかる。急ぐことはない、と今日一日かけて少しずつ思い直してきた。急がなくていい時間というものがある、と。


 部屋に戻った。


 夜の窓から空が見えた。星が出ていた。王都の空より多く見えた。建物が少ないから、空が広い。こんなことを、侯爵家にいる間は考えなかった。


 明日は「大事な話」を聞く。どんな話かはわからない。しかし今夜は、その星を少し見ていようと思った。帳簿のことを考えずに、何かを見ていられるのが、いまは少し心地よかった。

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