第十二話 次の場所
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌朝、父はすでに書斎にいた。
アイリーンが扉をノックすると「入れ」という声がした。机の前に座った父の横に、昨日も見えた封筒が一通、机の隅に置かれていた。今日は別の場所から来た手紙ではなく、封が開けられていた。
「座れ」
椅子を示された。アイリーンは腰かけた。
父が昨日の封筒を手に取った。
「これは三週間ほど前に届いた。先方への返事は昨日出した。あとは返事待ちだ」
「……先方は、どちらですか」
「シュヴァルツ公爵家だ」
アイリーンは少し間を置いた。
「東の辺境の」
「そうだ」
父が封筒を机に置いた。折りたたまれた内側の紙が少し見えた。
「公爵家から、財務に関わる仕事ができる人物への問い合わせが届いた。ローウェン家との縁があると書いてあった——詳しい経緯は後で話す。まずは内容を聞くか」
「はい」
「辺境の財務顧問として、正式な立場で仕事をしてほしいという内容だ。期間は最低でも一年。報酬は相応に出す、と書いてある」
報酬。
その言葉が、静かに耳に残った。
(正式な立場。報酬あり。)
八年間、アイリーンにはどちらもなかった。婚約者の家の財務を管理し続けて、役職はなく、報酬もなく、感謝も少なかった。それを「当然のこと」とは思っていなかった。ただ、仕事が動いていれば十分だと思ってきた。
しかし今、「正式な立場で、報酬あり」という言葉が目の前に出てきた。
「財務顧問というのは、どのような仕事でしょうか」
アイリーンは静かに確認した。感情的な揺れを声には出さなかった。
「手紙には詳しくは書いていないが、辺境特有の税制問題への対応と、全体の財務管理の見直しと書いてある。辺境は越境商人が多く、通常の徴収方式では問題が出ると」
越境商人が多い。
アイリーンの指先が、わずかに動いた。
(辺境税制の改革案。荷物の中に入っている。)
覚書の内容が頭の中に浮かんだ。一年近く書き続けてきた問題だった。越境商人への課税方式の再設計。通常の徴収に収まらない商取引をどう捉えるか——その問題が、目の前の話と重なった。
「……辺境の税制問題については、少し考えたことがあります」
アイリーンは言った。
父が少し眉を上げた。「そうか」
「余暇に書いていた覚書がございます。侯爵家を出るときに持ってきました」
「それは——」
父が短く止まった。何かを確認するような間があった。「少し変わった話がある」と昨日言っていた続きが、今ここに来る気がした。
「実はその覚書については、もう少し話がある」
父がゆっくり言った。封筒を手に取った。「公爵家への問い合わせに至った経緯が、その覚書と関係しているかもしれない。詳しくは明日話そう。今日は、行く気があるかどうかだけを聞きたい」
「行く気があるかどうか」
「報酬のある正式な仕事だ。辺境は遠いが。行ってみるか」
アイリーンは少しの間、考えた。
(仕事なら、できる。)
評価されるかどうかは、やってみなければわからない。しかし「仕事で判断してほしい」という場所への移動なら、それは動ける。感情的な期待ではなく、職業的な判断として。
「公爵は、どのような方ですか」
「堅実な人物だと評判だ。辺境の経営に実直に取り組んでいると聞く。社交は得意でないが、仕事の判断は公平だと」
仕事の判断は公平。
その言葉が、静かに刺さった。
「……行ってみます」
短く言った。父が頷いた。「それでいい」と一言言った。
「いつでも帰ってきていい。それを忘れるな」
アイリーンは一瞬、その言葉を受け取ることへの小さな戸惑いがあった。しかし受け取った。
「……ありがとうございます」
今度は、最後まで言えた。
父が手紙を机の端に置いた。窓の外で、白い花が朝の風に揺れていた。
*
部屋に戻って、荷物の中から覚書を取り出した。
旅の間も書き続けてきた十数枚の束。越境商人が多い辺境での課税方式についての考察だった。最初の一枚は一年以上前に書いたもので、少し紙が黄ばんでいた。「要検討」「数値要確認」という書き込みが各所にある。誰かに見せるつもりではなかった。ただ問題を解くのが楽しくて、書き続けていた。
それが今、目の前の「次の場所」への橋渡しになるかもしれない。
父は「詳しくは明日話す」と言った。覚書と公爵家への問い合わせの経緯が関係しているかもしれない、とも言った。どういう経緯か、まだわからない。しかし荷物に入れてきてよかった、とは思った。
机に束を広げた。
初めから読み直した。最初の問題設定——越境商人は居住地と取引場所が異なるため、通常の地域別課税では課税根拠が不安定になる——から始まる議論が、一枚ずつ展開していた。二枚目に試算がある。三枚目に先行事例の参照がある。
(これを、どこかで使えるなら。)
それは喜びだった。余暇に考えていたことが、実際の仕事として使える可能性があるとするなら。仕事が好きだから書いてきた。その仕事を、正式な立場で続けられるかもしれない。
しかし、一つだけ警戒があった。
「また評価されないかもしれない」という考えが、頭の隅にあった。八年間、正式には認められなかった。次の場所でも同じことになるかもしれない。侯爵家より良い環境だとしても、最終的に「誰でもできる仕事」と思われる可能性はある。
でも、それは行ってみなければわからない。
(仕事で勝負すればいい。)
今までもそうしてきた。次もそうする。それだけだった。
覚書を束に戻して、書類入れにしまった。明日、父から「詳しい経緯」を聞く。それから判断しても遅くはない。しかしすでに「行ってみます」と言った。その言葉を、取り消す理由はなかった。




