第十三話 改革案の話
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌朝の書斎は、昨日よりも日当たりが良かった。
父が机の前に座っていた。手元に二通の手紙があった。一通はアイリーンも見た封筒——シュヴァルツ公爵家からのもの。もう一通は見覚えのない筆跡だった。
「座れ」
アイリーンは椅子に腰かけた。父がもう一通の手紙を手に取った。
「これは一ヶ月ほど前に届いた。差出人は——クロウリー侯爵家の執事頭、ヨハンという者だ」
アイリーンは静かに父を見た。
「ヨハン様が」
「知っているか」
「……はい。侯爵家の執事頭です。帳簿の引継ぎをした方です」
父が頷いた。手紙の内容を読み上げた。要約すると——辺境の税制に関する覚書がローウェン家所縁の令嬢のものと思われる。公爵家に関係があるかもしれないと判断して転送する。書いた方に承諾を得られなかったことをお詫びしたい、という内容だった。
「……覚書を、ヨハン様が転送された」
「そういうことのようだ。シュヴァルツ公爵家への手紙にも、この覚書が同封されていたと書いてある。公爵がそれを読んで、作者に会いたいと言った——というのが経緯だ」
アイリーンは少しの間、黙っていた。
(引継書の束に混じってしまったのだ。)
覚書を「持ち帰ろう」と思いながら、帳簿の作業に集中していたあの夜。翌朝も財務室に向かいながら頭の中では別のことを考えていた。覚書は「別にしておかなければ」と思いながら、結局確認できないまま引継書の束がヨハンに渡った。
ヨハンはそれを見つけた。そして転送した。
「ヨハン様らしい、と思います」
アイリーンは静かに言った。
「ヨハン様は、誠実な方です。私の書いた覚書を見て、正しい場所に届けようとしたのでしょう。書いた私には承諾を得られなかったという点もきちんと書かれていました」
「怒っているか」
「いいえ」
本当のことだった。怒りの理由がなかった。書類が混じってしまったのはアイリーン自身の不注意でもある。そしてヨハンは誠実に行動した。「書いた方に承諾を得られなかった」という一文が、ヨハンらしかった。あの方は、常に誠実だった。
(最後の引継ぎの朝も、馬車を手配してくれていた。)
そしてこうして、書類を届けてくれた。アイリーンが去った後に、手元に届いた覚書を「しかるべき場所へ」と判断して動いてくれた。それが今、「次の場所」への縁になっている。
「……ヨハン様が、仕事を届けてくれた」
アイリーンはそう思った。声には出さなかったが、胸の中にあった。「申し訳ありませんでした」と頭を下げたあの方の行動が、形を変えてここに届いた。
「公爵は、覚書を読んでどのような反応だったでしょうか」
「手紙には『作者に会いたい。直接仕事を話したい』と書いてある。それだけだ」
「……会いたい、だけですか」
「そうだ。内容についての評価は書いていない」
アイリーンは少し考えた。評価が書かれていないことは、「良くなかった」という意味にも取れた。しかし「会いたい」と言うということは、少なくとも関心は持ったということでもある。どちらか判断するには、会ってみるしかない。
「公爵がどのようなお方かは、わかりません。しかし仕事の話を聞くだけなら、それはできます」
父が静かに頷いた。
「では返事を出そう。来月の早い時期に辺境まで向かうということでどうか」
「はい」
「一つだけ確認するが——辺境は遠い。片道で四日はかかる。うまくいかなければ帰ってきていい。しかしうまくいったとしても、少なくとも一年はあちらにいることになる」
「わかっています」
父が机の上の手紙を静かに揃えた。「では話はそれだけだ」と言った。
アイリーンは立ち上がる前に少しだけ止まった。
「父上」
「なんだ」
「ヨハン様へ、礼を言う手紙を書いてもよいでしょうか。私から直接」
父が一瞬目を細めた。それから「そうしなさい」と短く言った。
アイリーンは頷いた。
書斎を出た後、廊下でしばらく立ち止まった。
(ヨハン様が、縁を作ってくださった。)
今度は、ちゃんと感謝を言葉にしたいと思った。引継ぎの朝に言えなかった「ありがとうございました」を、手紙の中に込めることができる。間に合うかもしれない。間に合わなくても、書くべきだと思った。
部屋に戻って、便箋を一枚出した。
ヨハンへの手紙を書こうとして、最初の一行で少し止まった。
「ありがとうございました」から始めるのが自然だった。しかし何に対してありがとうかを書こうとすると、一言では収まらなかった。引継書を受け取ってくれたこと。馬車を手配してくれていたこと。そして覚書を、判断を持って転送してくれたこと。
全部を書くと長くなる。でも全部が、感謝の理由だった。
結局、アイリーンはこう書いた。
「覚書の件、届けてくださったとのこと、ありがとうございました。侯爵家在籍中、よくしていただいたことに改めて感謝申し上げます。よい帳簿仕事のできる次の担当者が見つかりますよう、願っております」
短かった。感情的な言葉は一つも書かなかった。それでも「ありがとうございました」という言葉は、ちゃんと入った。
封をして、使用人に頼んで王都へ送ってもらうことにした。
*
その夜、覚書を読み返した。
翌日から準備を始めるとして、出発まで一週間ほどかかる。父が公爵家に返事を出した以上、日程が決まれば動く必要がある。その間に覚書をもう少し整理しておきたかった。
辺境に行くとなれば、この問題と向き合う機会が本当に来るかもしれない。余暇の思考実験ではなく、実際の数字と現地の状況を合わせて考えられるかもしれない。
(それは、楽しいかもしれない。)
そういう気持ちが、静かにあった。侯爵家を去るときに感じた「終わった」という感覚とは違う。「始まる」に近い何かが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
燭台の炎が揺れた。部屋が静かだった。ペンを手に取って、覚書の余白に新しい一行を書き加えた。
明日からの準備が、楽しみだと思った。そのことに、少し驚いた。




