第六十八話 ……私も、ここにいたいと
少し俯いた。
口元が動いた。止めようとした。止めきれなかった。
笑みが出た。
今まで出たことのない種類の笑みが出た。礼儀として整えた表情ではなかった。「笑いたい」という気持ちが内側から来て、それが自然に出た。「うまく言えないが、そういうことだ」という言葉が来た瞬間から、口元が動こうとしていた。止めていた。でも止められなかった。
物語の中で初めて、アイリーンが笑った。この笑みを「どこから来たのか」と問われたら、うまく言えなかった。「うまく言えないが、そういうことだ」という言葉が笑みを連れてきた——それだけのことだった。
「……なぜ笑っているんだ」
アルドリックの声が来た。困惑の声だった。怒りではなかった。責めているわけでもなかった。「笑顔が来た」という事実に戸惑っている、という声だった。
アイリーンはもう少し俯いた。笑みを消そうとしたが、消えなかった。
(……笑えるんだ、私は。)
そう思ったら、また少し来た。侯爵家での八年間に来なかったものが来ていた。笑うことへの驚きが、笑みの中に入っていた。
笑う、という行為が自分の中にあった。それを今日初めて知った。知れたことへの驚きがあった。
「……うまく言えないのは、あなただけではないからです」
声に出た。俯いたまま言った。声が少し細かった。しかし揺れなかった。笑みが声に入っていた。
言った後で、顔を上げた。
アルドリックがこちらを見ていた。少し目が動いた。「うまく言えないのはあなただけではない」という言葉の意味を、処理しようとしている目の動きだった。
その目を見て、アイリーンの笑みがもう少し深くなった。「うまく言えない」という二人の共通点が、今日のこの場所にあった。それがどうしてか温かかった。
(この人に、届いた。)
届いたことがわかった。
「うまく言えないのはあなただけではない」という言葉は、自分も「うまく言えない」という告白だった。感情の言葉が苦手なのは自分も同じだ、という確認だった。「二人は同じ不器用さを持っている」という確認が、この言葉に入っていた。
届いた。この言葉が届いたということは、この人が「うまく言えないまま正直に言った」こと、そしてそれを受け取った自分がいること——それが今日の事実だった。
*
アルドリックが少し間を置いた。
「……そうか」
短い言葉だった。いつもの「そうか」より声が低かった。感情が入った声だった。「わかった」の「そうか」ではなかった。「受け取った」の「そうか」だった。今日の「そうか」はこの二人の間で、今までで最も重かった。
執務室に静かな時間が来た。
アイリーンは笑みが少し落ち着いたのを感じた。代わりに胸の奥に温かいものが残っていた。「笑いたい」から「温かい」に変わった。変わったが、どちらも同じ根から来ていた気がした。
(……受け取った。)
アルドリックの「いてほしい」という言葉を、今日受け取った。
「また必要なくなると言われるかもしれない」という恐れが来なかった。「受け取ったら失うかもしれない」という恐れが来なかった。「受け取った」という事実だけが来た。恐れが来る前に温かさが来た。今日は順番が違った。
侯爵家での八年間、感情を受け取ることへの恐れがあった。感情を受け取ると傷つく可能性が生まれる、という感触があった。だから受け取らなかった。受け取る前に「仕事」に変換した。
しかし今日は受け取った。受け取って、「温かい」という感触が来た。恐れが来なかった。
「……私も、ここにいたいと思っていました」
声に出た。
言葉が出た後、アイリーンは少し息を吸った。言えた。言えたことへの静かな確認があった。この言葉は嘘ではなかった。「いたい」という気持ちは確かにあった。「ここにいたい」と思っていた。侯爵家を出てから、ここに来て、この場所で仕事をしながら、いつからか「ここにいたい」という気持ちがあった。それを今日言えた。
アルドリックがまた少し目が動いた。目の動きが止まった。こちらを見た。
「……そうか」
また「そうか」が来た。今度の「そうか」は声がさらに低かった。感情の重さがあった。
アイリーンはその「そうか」を受け取った。アルドリックの「そうか」はいつも受け取り方が違った。今日の「そうか」は「私もそう思っていた」という意味の「そうか」だった。
*
執務室の夜が静かだった。燭台の炎が揺れた。外から虫の声が聞こえた。辺境の夏の夜だった。
二人の間に穏やかな時間が残った。「言うべきことが言えた」という落ち着きがあった。「受け取れた」という確認があった。「ここにいていい」という事実が今日完成した。
アルドリックが「そうか」と言ったまま、こちらを見ていた。それ以上の言葉は来なかった。来なくていいとアイリーンは思った。今日の言葉は全部言い切った。「そうか」という言葉の中に、続く全部が入っていた。この人の言葉はいつも短い。短いが、空白がある。その空白に自分が読んだものが入っていた。それで十分だった。
翌朝、アルドリックの手に何かがある気がした——そういう予感が、静かに来た。今夜はよく眠れる気がした。




