第六十七話 仕事の話ではない
「……仕事の話ではない」
アルドリックがそう言った。声が低かった。静かだった。
また間があった。
「仕事の話ではない」——その言葉がアイリーンの中で確認として来た。
(……やはり、そういう話だ。)
わかっていた。予感はあった。声の調子が仕事のときと違っていた。書類を持っていなかった。「少し話がある」という言葉の質が仕事の確認のときと違った。それらが重なって、今日がそういう日だという予感があった。リンデの「公爵様が気にされている」という言葉もあった。あれはただの観察報告ではなかった、とも思っていた。
しかし「仕事の話ではない」という言葉で確認が完成した。「そういう話だ」という確認が、はっきりと来た。
アイリーンは動かなかった。答えを出さなかった。まだ終わっていない——という確信があった。「仕事の話ではない」は続きのある言葉だった。「ではどういう話か」という続きが来るはずだった。しかしもうわかっていた。続きが来なくても、今日の言葉はすでに意味の輪郭を持っていた。
アルドリックが言葉を探していた。長い間だった。しかし前の間より少し短くなっていた。「どの方向に向かうか」は決まっていた。あとは「どの言葉を選ぶか」だけだった。アイリーンはその間を静かに待っていた。待つことが今の自分にできることだった。
夕刻の光がほとんど消えていた。執務室に夜が来ようとしていた。燭台の炎が揺れた。部屋が少し暗くなっていた。しかしそのことに今のアイリーンは気づいていなかった。
*
「……うまく言えないが、そういうことだ」
言葉が来た。
アイリーンは一瞬止まった。
(……うまく言えないが、そういうことだ。)
その言葉を頭の中で繰り返した。「仕事の話ではない」と「あなたにここにいてほしい」と「うまく言えないが、そういうことだ」——三つの言葉を並べると、方程式が成り立った。
「仕事の話ではない」+「ここにいてほしい」=「そういうこと」。
アルドリックがそれ以上言わなかった。「うまく言えないが、そういうことだ」で終わった。補足も説明も来なかった。「そういうことだ」という一言で言い切った。沈黙が来た。アルドリックが静かにこちらを見ていた。
(……この人らしい。)
そう思った瞬間、胸の奥に何かが来た。おかしさと温かさが混ざった何かだった。「うまく言えない」ことへの苦笑ではなかった。「うまく言えないまま言い切った」ことへの、何かだった。
「うまく言えないが、そういうことだ」——それはこの上なく正直な言葉だった。言葉が足りないことを自分でわかっていながら、それでも言い切った。「もっと上手く言い直す」という選択をしなかった。補足で誤魔化さなかった。「言葉が足りない」という事実ごと出した。
その正直さが来た。「うまく言えない」ことを補足した説明が一行もなかった。それで十分だった、という判断があった。その判断がこの人らしかった。言葉が足りないなら「足りない」と言う。それだけのことだった。しかしそれだけのことが、こんなに来るとは思っていなかった。
仕事の場でも、この人はそうだった。「わからない」ときは「わからない」と言った。「確認が必要だ」ときは確認した。言葉を飾らなかった。今日も同じだった。感情の場でも、言葉の飾り方を知らなかった。それでも言い切った。
何かがこみ上げた。泣きたいのではなかった。怒りでもなかった。おかしさと温かさの混ざったものが来て、口元が少し動きそうになった。胸の奥から来るものだった。静かで、しかし確かにあるものだった。
(……笑いたい、のかもしれない。)
そう気づいた。
侯爵家での八年間、「笑いたい」という気持ちが来たことは、記憶の中になかった。必要のある場面では礼儀として表情を整えたが、「笑いたい」という気持ちが内側から来たことは、記憶にある限りなかった。
しかし今、「笑いたい」という気持ちに近いものが来ていた。この感情に名前をつけるなら「笑いたい」が一番近かった。笑うことへの驚きがあった。笑えるとは思っていなかった。
アルドリックがこちらを見ていた。返答を待っていた。「そういうことだ」と言い切って、こちらの返答を静かに待っていた。急かさなかった。焦っている様子もなかった。言うべきことは言った——という落ち着きがあった。それがまたこの人らしかった。言い切ったら待てる。それができる人だった。
返答を待っている目が、いつもの目と同じ質で真っ直ぐこちらを向いていた。仕事の確認のときも、「不当だ」と言ったときも、今日も——同じ目の質だった。この人の目はいつも同じだった。それが今日は少し温かく見えた。
アイリーンは少し俯いた。俯いて、口元が動くのを感じた。止めようとした。止めきれなかった。
こんな気持ちは知らなかった。侯爵家での八年間に来なかった気持ちだった。「うまく言えないが、そういうことだ」という言葉が、なぜかとても届いた。届いたことに、今も少し驚いていた。
俯いたまま、少し呼吸した。答えを出そうとした。言葉を探した。「うまく言えないのは、あなただけではない」という感触があった。答えが来ようとしていた。




