表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/70

第六十六話 あなたにここにいてほしい

 「……あなたにここにいてほしい」


 その言葉が執務室に残った。しばらく消えなかった。


 間があった。短い間ではなかった。


 アルドリックが何かを続けようとしていた——それがわかった。「あなたにここにいてほしい」という言葉を言い切った後で、また止まっていた。言葉が終わっていなかった。終わらせるつもりがなかった。口を開きかけて、止まった。また開きかけた。


 アイリーンは動かなかった。答えを出そうとしなかった。


(……来た。)


 内側が静かだった。予感はあった。今日がそういう日だという感触があった。しかし実際に言葉が来てみると、内側の静かさが少し深くなった。「来た」という確認が、静かに完成した。数日前から感じていた「来る」という予感が、今ここで実になった。


 「……わかりました、ありがとうございます」という言葉が喉まで来た。


 止めた。


(……違う。これはそういう話ではない。)


 仕事として答えてはいけない、という感触が来た。「残留を了承します」「引き続きお世話になります」という意味の言葉を返してはいけない。アルドリックの言葉はそういう意味ではなかった——今日のこの声の調子は、仕事の話の声ではなかった。声の温度が違った。


 だから止めた。職業的な答えを喉の手前で止めた。手前で止めた言葉が喉に残った。「わかりました」ではない言葉が、まだ形になっていないまま、胸の奥にあった。


 それまでなら、止めることができなかった。「いつも通りに処理する」という習慣が強くて、感情の言葉を受け取ることができなかった。しかし今日は止めた。「これは仕事の話ではない」という確認があって、「仕事の言葉で返してはいけない」という判断ができた。


 受け取ることへの恐れが、今日は来なかった。「また必要なくなると言われるかもしれない」という恐れが、今日は来なかった。来なかったことに気づいた。いつか来るかもしれない。しかし今日は来なかった。それが今日の事実だった。


 代わりに待った。アルドリックが続けようとしている。続きがある。それを待った。この人は伝えようとしている。不器用でも、言葉が遅くても、伝えようとしている。その誠実さが今日の言葉の一つ一つに入っていた。


   *


 アルドリックが続けようとしているのがわかった。もう少し何かを言おうとしていた。「あなたにここにいてほしい」という言葉の後に、補足が来ようとしていた。


 視線が少し下に落ちた。また言葉を探す目の動きだった。この目の動きをアイリーンはいつの間にか知っていた。「仕事の確認のとき」の目ではなかった。「正しい言葉を選ぼうとしているとき」の目だった。それが今日は長い。それだけ難しい言葉を探しているのだろう、と思った。


(……待とう。)


 待てる。今日のアイリーンは待てた。この人が言葉を選んでいる時間を、急かさずに待てた。ここにいながら待てた。そのことがわかった。


 執務室の沈黙が続いた。夕刻の光が少し傾いた。机に伸びていた影が、少し動いた。窓の外で木が風に揺れた音がした。


 アルドリックがゆっくり息を吸った。


 また、間があった。


 夕刻の光がオレンジ色から少し暗い色に変わっていた。時間が経っていた。しかしアイリーンには長く感じなかった。この沈黙の中にいることが、苦ではなかった。


 この人が言葉を探している——それを一緒に待っていられる、という感触があった。待てる。待ちたい。両方の気持ちがあった。待つことが苦ではなかった。このことは、少し前のアイリーンには想像できなかったことだった。


 侯爵家で沈黙があるとき、それはいつも「何かまずいことが起きた」という前触れだった。沈黙は不穏だった。「何が問題か」を先読みして対処する用意をしながら待つ、という種類の待ち方だった。息を詰めながら待っていた。


 しかしここの沈黙は違った。ここの沈黙には、何かが育っている時間としての質があった。「問題の予兆」ではなく「言葉が形になろうとしている」という時間だった。それがわかった。息を詰める必要がなかった。


 アイリーンは両手を体の前で重ねたまま、静かに立っていた。表情を整えていた。平静に見えるように整えていたが、内側はそうでもなかった。


 アルドリックが顔を上げた。こちらを見た。目が合った。


「……仕事の話ではない」


 続きが来た。一言が、また少し長い間の後に来た。声が低く、落ち着いていた。


 また、間があった。アルドリックが何かを続けようとしていた。言葉を選んでいた。アイリーンは待った。まだ終わっていない、という確信があった。答えを出すのはまだ早い。この人の言葉を全部聞いてから答える。それがこの場の正しい順番だった。


 アイリーンは「はい」とも「わかりました」とも言わなかった。ただ、目を見て、待った。返事をしないことが礼儀のない行為だとは思わなかった。この人が言葉の続きを持っている。それを待つことが、今の礼儀だった。


 夕刻の執務室に、二人の静かな時間があった。光がさらに傾いた。夜が近づいていた。それでもアイリーンは動かなかった。動く必要がなかった。窓の外で夕暮れが深くなっていた。辺境の夏の夜が来ようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ