第六十五話 夕刻の呼び出し
数日後のことだった。
夕刻、業務の最後の計算を終えて帳簿を閉じようとしたとき、アルドリックが財務棟の入口に立った。
「少し話がある」
それだけだった。「書類を持ってきた」でも「確認がある」でもなかった。「少し話がある」という言葉だけが来た。
手にも書類はなかった。いつもの来訪のときとは少し違う立ち方だった。扉の枠に手を置いて、少し止まって言った。アイリーンはその立ち方を一瞬で見た。見て、何かを感じた。
(……仕事の話ではない気がする。)
根拠はなかった。しかし声の調子がわずかに違った。「少し時間があるか」という仕事の確認のときとは、何かが違った。言葉は同じくらい短かった。しかし声に何か別のものが混じっていた。混じっている、と感じた。
「……はい」
アイリーンは帳簿を置いた。立ち上がった。表情には出さなかった。
「執務室でいいか」
「はい」
アルドリックが先に歩いた。アイリーンが続いた。
*
廊下を歩きながら、アイリーンは何の話かを少し考えた。
正式任命の件かもしれない、と一瞬思った。王家財務担当官への書状を送ってから数日が経つ。返答についての続きがあるのかもしれない。あるいは他の仕事の話かもしれない。仕事として説明のつく用件はいくつか思い浮かんだ。「設計者と直接話す機会を」という王都からの要請について、どう対応するか決める必要もあった。
しかし「仕事の話ではない気がする」という感触が先に来ていた。それが変わらなかった。
考えを深めるのをやめた。今考えても答えは出なかった。「来たら、わかる」という静かな感触に従った。
廊下の窓から夕刻の光が入っていた。橙色の光が床に細長く伸びていた。一日の終わりの光だった。辺境の夕刻は侯爵家よりも空が広い。光の角度が穏やかだった。アルドリックの背中に光が当たっていた。影が長かった。
(……来る。)
その確信が静かに広がった。「来るかもしれない」ではなく「来る」という確信だった。根拠のある確信でもなかった。ただ、今日のアルドリックの「少し話がある」という言葉と、この数日の来訪の調子の変化と——それを重ねると、今日がそういう日だという感触が来た。
足が少し速くなりそうになった。意識して落ち着けた。表情には出さなかった。表情に出さないことは慣れていた。しかし今日は出さないことが少し惜しい気がした。そう気づいたこと自体が、変化だった。侯爵家での八年間で培った「顔に出さない」という技術が、今日は少し邪魔だった。
*
執務室に入った。アルドリックが扉を閉めた。
向かい合った。いつもと同じ配置だった。机があった。窓があった。夕刻の光があった。しかし今日は書類が机の上になかった。何も置かれていなかった。机が空のまま、二人が向かい合っていた。
アルドリックが少し間を置いた。
それがわかった——「言葉を探している」ということが。いつもの「少し待って」とは違う間だった。何かを整理している、というより、「どう始めるかを探している」という種類の間だった。目線が少し下に落ちた。言葉を探すときのアルドリックの目の動きを、アイリーンはいつの間にか知っていた。仕事の場では滅多に見られない目の動きだった。それが今日はある。
アイリーンは静かに待った。
急く必要はなかった。この人が言葉を探しているなら、見つかるまで待てばいい。「この数字の根拠を確認します」と言うまでの間を待つのと、同じ種類の待ち方だった。ただ今日の待ち方は、仕事の間を待つのとは少し違う温度があった。体が少し緊張していた。しかし落ち着いてもいた。両方が同時にあった。
夕刻の光が窓から差し込んでいた。執務室に静かな時間があった。外から鳥の声がして、止んだ。また沈黙が来た。
アルドリックが息を一つ吸った。
(……来る。)
今度はより確かな確信として来た。胸の奥が少し速くなった。顔には出さなかった。ただ、両手を自然に体の前で重ねた。
部屋の沈黙が続いた。アルドリックが口を開こうとして、また少し止まった。言葉を探しているのが見えた。焦りとは違う、確かめるように言葉を探している——そのことがアイリーンにはわかった。この人は嘘をつかない。仕事の場でも、今日の場でも、言えないときは言わない。言うときは本当のことを言う。それをアイリーンは知っていた。
外では夏の夕暮れが、少しずつ濃くなっていった。長い沈黙だった。しかし嫌な沈黙ではなかった。この人が言葉を選んでいる沈黙だった。この人が誠実さで言葉を探しているのがわかった。急かせなかった。急かしたくもなかった。
アイリーンは目線をアルドリックに向けたまま、待っていた。急く必要はなかった。この人が言葉を選んでいる、その時間を一緒にいられた。少し前まで「待つ」ことが苦しかった。今は待てた。ここにいながら待てた。
長い沈黙の後、言葉が来た。
「……あなたにここにいてほしい」
静かな声だった。執務室にその言葉が残った。
アイリーンの内側が、静かになった。「来た」という確認が来た。長い間それを待っていたとは思わなかった。しかし来た瞬間に「待っていた」と気づいた。続きを、静かに待った。




