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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第六十四話 リンデが気づく

 翌日の午前、リンデが財務棟の廊下でアイリーンを見かけた。


「少しよろしいですか」


「はい」


 リンデが歩調を合わせた。二人で廊下を歩きながら話した。廊下には他に人影がなかった。


「最近よく、公爵様がこちらを気にされているようです」


 さりげない言葉だった。「気にされている」という表現も、「このような用件があります」という形でも、「問題があります」という形でもなかった。観察の報告として来た。日常の出来事を伝えるような口調だった。しかしリンデがわざわざ声をかけてきた、という事実があった。リンデは必要なこと以外は言わない。それもアイリーンは知っていた。


「……そうですか」


 アイリーンは答えた。顔を少し伏せた。


 「気にされている」という言葉を、頭の中で少し繰り返した。仕事として、という意味かもしれない。税制改革についての王都からの書状の件もあった。それについて気にかけているという可能性は十分あった。今は返答書類の準備が終わったばかりで、追加の確認が必要になることはありえた。


(……仕事の話かもしれない。)


 しかし「仕事の話ではないかもしれない」という感触も、静かに同時に来た。どちらかをはっきりさせたいかというと、そうでもなかった。


 リンデが顔を伏せたアイリーンを一瞬見た。何かを言おうとした様子があった。しかし言わなかった。


「……では、仕事の邪魔をいたしました」


 そう言って、廊下の角で別れた。去り際の足取りは静かだった。背中に「あとはご自身でどうぞ」という意味が含まれていた気がした。気のせいかもしれなかった。


   *


 財務棟に戻ってから、「気にされているようです」という言葉が頭の端に残り続けた。


 作業を続けた。帳簿を開いた。数字を確認した。計算した。手は動いていた。しかし頭の一部は別のところにあった。


(……気にされている。)


 アルドリックが「気にしている」。何を。


 仕事の話として、という可能性はあった。昨日の書類のこと、王都への返答のこと——それについて確認したいことがある、という意味かもしれない。


 しかし「仕事の話ではない気がする」という感触も、同時に来ていた。根拠を言えと問われたら、あいまいだった。ただ、最近のアルドリックの来訪の調子が変わっていた。「少し時間があるか」という声の質が、仕事の確認のときと微妙に違っていた。手に書類を持っていないときの来訪が、以前より多くなっていた。


 それが何を意味するかは、アイリーンにはわからなかった。わかろうとする気持ちが以前ほど強くなかった。わかる前に答えが来る、という感触があった。


(……どちらでもいいかもしれない。)


 そう思ったら、少し肩の力が抜けた。


 「気にされている」が仕事の話でも、仕事以外の話でも、今の場所は変わらない。ここにいる、という事実が変わらない。どちらの話が来ても、今の自分には答えられる気がした。


 これは前と変わった感触だった。以前なら「仕事の話であってほしい」と思っただろう。仕事以外の話は処理の仕方がわからない、という理由から。しかし今日は「どちらでもいい」が来た。どちらでもいい、という感触が来たことは、何かが変わったということだった。


(待っていればいい。)


 その感触が来た。急かす必要がなかった。この人が何かを言おうとしているなら、その時間を待てばいい。仕事をしながら待てばいい。それだけだった。「待つ」ことが、今の自分には自然にできる気がした。以前の「仕事に逃げながら待つ」ではなく、「ここにいながら待つ」という種類の待ち方だった。


   *


 午後、廊下を歩いていると、遠くからリンデの声とアルドリックの声が聞こえた。


 角の手前で足が自然に止まった。


「何かお悩みですか」


 リンデの声が聞こえた。穏やかな、いつもの口調だった。長く仕えてきた人間が、気遣いとして聞く言葉だった。


 少し間があった。


「……いや」


 アルドリックの返答が聞こえた。一言だった。


 アイリーンは角の手前でそのまま少し立っていた。聞き耳を立てるつもりはなかった。ただ偶然聞こえた。


(……「いや」。)


 先日自分に言った「いや」と同じ調子だった。「失礼しました」という自分の言葉を止めた「いや」と、同じ質の言葉だった。「悩んでいない」という意味の「いや」ではなかった。「今それを言葉にする手段がない」という種類の「いや」だった。


 そのことがわかった。どうしてわかったかは、説明できなかった。しかし確かにわかった。この人の「いや」の意味が、少し前より読めるようになっていた。


 アイリーンはそのまま別の廊下を通った。足音を立てないようにした。二人に気づかれなかったと思う。


 財務棟に戻った。帳簿を開いた。計算を続けた。


 今日の数字が合った。その瞬間の静かな確認が、今日もあった。数字が合う、という事実は変わらない。仕事の軸がある限り、迷わない。


 窓の外の夏の午後が明るかった。「待っていればいい」という感触が、今日は昨日より確かだった。数日後の夕刻、「少し話がある」という言葉が来るかもしれない——そういう予感が、今日初めて少し形として来た。


 来たら来たで、答えればいい。それだけだった。

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