第六十三話 どう言えばいい
朝の執務室に、アルドリックは一人でいた。
書類があった。今日処理すべき案件があった。しかし手はすぐには動かなかった。
昨日、アイリーンが書類に名前を書き入れる瞬間を見た。「アイリーン=エランフィールド」という名前が、空白の欄に静かに入った。書く前に一拍止まった。そして書いた。書いた後のほうが落ち着いていた——そのことを、今朝また思い返した。
(……「受け取った」、という顔だった。)
「受け取った」という表情が何かはわからなかった。しかしそう見えた。「……ありがとうございます」と言ったときの声は揺れなかった。二日前の「ありがとうございます」は揺れた。昨日は揺れなかった。揺れなかったことが「受け取れた」という意味に見えた。その違いは、この一週間でできた違いだった。
良かった、と思った。
あのとき何かを言えばよかったか、と考えた。しかし何を言えばよかったかはわからなかった。何も言わなかったことが正しかったかどうかも、わからなかった。ただ、見ていた。
それと同時に「どう言えばいい」という問いが戻ってきた。
「いてほしいのだ」という感情はある。それが何を意味するかは、今は明確だった。仕事として残ってほしい、という話ではなかった。仕事の外にある何かとして、この人にいてほしい——その感情がある。しかし言葉がなかった。
*
仕事の言葉は出た。「この書類を明日までに」「この数字の根拠を確認してほしい」「返答は一緒に考えよう」——そういう言葉は自然に出た。決断の言葉も出た。判断の言葉も出た。必要なことを伝えるための言葉は、いつでも用意されていた。それが仕事の言葉だった。正確で、無駄がなく、目的のある言葉だった。
しかし感情の言葉が出ない。「感情を言葉にする」という行為を、これまでほとんどやってこなかった。やる必要がなかった、ともいえた。辺境の統治に感情の言葉は必要ない。家臣に指示を出すとき、交渉のとき、判断を下すとき——感情の言葉は邪魔になることが多かった。出さないことが習慣になっていた。
しかし今日、必要になっている。
(……どう言えばいい。)
頭の中で言葉を試してみた。
「あなたにここにいてほしい」——言えるかもしれない。しかしこれは「仕事として残れ」という意味に聞こえるかもしれない。正式任命を検討していることもあって、余計にそう聞こえるかもしれない。
少し考えた。違う、という感触が来た。
「あなたに、仕事の外でも——」——違う。仕事の外という話でもない。仕事をしているこの人が、この場所にいることを望んでいる。仕事をしているときの目の動き、数字の前での手の動き、「お断りします」という声の調子——それが全部で、仕事の外、という区切りが意味をなさない。
「あなたが必要だ」——それも違う気がした。「必要」という言葉は重い。重い言葉を最初から出すのは、この人に対して正直でない気がした。大げさになる。この感情は大げさなものではなかった。静かで、しかし確かにある感情だった。
(……どれも違う。)
三つ試して、三つとも違った。
言いたいことの半分も捉えられない。「いてほしい」という感情は明確なのに、それを言葉にすると何かがこぼれる。言葉は入れ物として小さすぎるか、形が合っていないか——どちらかだった。
アルドリックは窓の外を少し見た。夏の朝の光が強くなっていた。中庭の木が静かだった。
*
「感情を言葉にした経験がない」という事実は、今日初めて問題として来た。
それまでは問題ではなかった。仕事の言葉だけで足りていた。感情の言語化が必要な場面がなかった、というよりも、感情の言語化が必要だと気づかなかった。
しかし今日、必要になっている。
「伝えるべきだ」という結論は、すでにあった。「いてほしい」という感情がある以上、それを伝えるべきだ、という判断だった。感情の問題として、というより、誠実さの問題として。「この人に対して、正直でいる」ということが、言うべき理由だった。仕事の場では正直でいることを当然としてきた。感情の場でも同じでいいはずだった。
だから言う。言い方がわからなくても、言う。「うまく言えない」ことへの恥ずかしさは今はなかった。ただ、この人に伝えるべきだ、という事実があった。それで十分だった。
(……うまく言えないかもしれない。)
しかし「うまく言えない」という事実は、「だから言わない」という理由にならない。「うまく言えないまま言う」という選択が残っていた。残っている以上、選べる。
いつ言うか、という問いが次に来た。答えは来なかった。しかし「いつか」のまま置いておくつもりもなかった。
アルドリックは羽根ペンを取った。書類に向かった。今日の仕事を始めた。手は動いた。しかし頭の一部は別のところにあった。
しかし「どう言えばいい」という問いは、頭の端に残り続けた。翌日も、その次の日も、残り続けるだろうと思った。言葉が見つかるまで。
リンデが翌日こちらの様子を見るだろう、という予感があった。長く仕えてきた人間は、言葉がなくても読む。それはわかっていた。読まれることへの煩わしさはなかった。ただ、まだ言葉が見つかっていなかった。




