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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第六十二話 あなたが書いた仕事だ

 翌日、アイリーンは昨日の続きの作業を進めながら、「名前の件」を頭の端に置いていた。


 王家への返答書類の草稿を作った。問い合わせ項目に対する回答を整理した。農村調整案の内容を説明する文章を作り、三年計画の数字的根拠を整理した。それは問題なくできた。


 しかし書類の末尾にある「設計者名」という欄を、空白のまま置いていた。


(……ここに、名前を入れる。)


 自分の名前を入れる、ということだった。「シュヴァルツ公爵領税制改革・設計者:アイリーン=エランフィールド」という形で、王家の書類に記録されることになる。


 侯爵家の令嬢として、旧姓のまま、他家の財務を担当している——その状況はすでに慣習から外れていた。名前を公式の場に出すことは、その状況をさらに公にする。「女性が財務の設計者として王都の記録に残る」という形になる。


 戸惑いがないかというと、嘘になった。「問題にならないか」という実務的な懸念があった。それとは別に、もう少し個人的な何かもあった。


(名前を——)


 名前を公の場に出すことへの慣れのなさ、だったかもしれない。侯爵家での八年間、名前は出なかった。仕事は出た。結果は出た。しかし「誰が作ったか」という問いは来なかった。その習慣が体に入っていた。


「仕事が届けばいい。名前は関係ない」——そう思っていた時間が長かった。


 しかし今日、「設計者名」という欄が空白のまま机の上にある。


 この欄を埋めることが、次の仕事だった。


 ペンを持った。しかし少し考えてから、一度ペンを置いた。アルドリックが来てから話を聞こう、と思った。


   *


 アルドリックが午前の半ばに来た。


「書類を見せてもらえるか」


「はい」


 草稿を渡した。アルドリックが読んだ。回答内容を確認した。少し時間をかけて読んだ。修正の指摘はなかった。


「……ここが空白になっている」


 設計者名の欄を指した。


「……はい。そちらについてお伺いしたいことがありました」


「聞こう」


 アイリーンは少し整えてから話した。


「王都の書類に名前を記す件ですが——女性が財務設計者として正式に名前を出すことは、慣習上珍しいと思われます。問題がないか確認したく」


 実務的な問いとして出した。「私には名前を入れる権限があるか」という問いとして出した。


 アルドリックが少し間を置いた。


「書いた」


「……はい?」


「あなたが書いた仕事だ」


 短い言葉だった。二文だった。しかしアルドリックはそれ以上言わなかった。「だから名前を入れろ」という指示も来なかった。「慣習については問題ない」という説明も来なかった。ただ「あなたが書いた仕事だ」と言った。


 それだけ言って、書類をこちらに返した。


(……そうだ。)


 事実だった。当然の事実だった。しかし「当然の事実」として受け取れていなかったのが、今日まではそうだった。


 「私が書いた」という事実は、知っていた。しかしそこから「だから名前を入れていい」という連続が自動的には来なかった。「書いた」と「名前を入れていい」の間に、何かが詰まっていた。「自分の名前を正式な場に出すことへの戸惑い」という何かが。


 「あなたが書いた仕事だ」という言葉が来て、詰まっていた何かが動いた。「あなたが書いた」という確認が来て、「だから入れていい」という連続が初めてつながった。「書いた人間が名前を入れる」——それは当然の話だった。しかしその「当然」をアルドリックが言葉にしてくれて初めて、当然として受け取れた。


「……はい」


 アイリーンは答えた。声が揺れなかった。落ち着いた声で「はい」と言えた。


 ペンを持った。空白の欄に向かった。


 手が少し止まった。一拍あった。


 書いた。「アイリーン=エランフィールド」という名前を、空白の欄に書き入れた。書く前より書いた後のほうが、手が落ち着いていた。


 インクが乾くまで少し待った。アルドリックが傍らでそれを見ていた。何も言わなかった。ただ、見ていた。


(……仕事が、ここまで届いた。)


 昨日と同じ言葉が来た。しかし今日は「届いた」という感触に、「名前ごと届いた」という意味が加わっていた。仕事だけが届いたのではなく、その仕事を作った自分ごと届いた、という事実が今日完成した。


 侯爵家の八年間では来なかった事実が来た。「誰が作ったか」を問われて、名前を書いた。インクが紙に残った。消えない形で残った。


「……ありがとうございます」


 アルドリックに向かって言った。「あなたが書いた仕事だ」という一言への感謝だった。名前を書く方向に静かに押してくれた一言への感謝だった。


「……ああ」


 アルドリックが短く言った。


 書類を整えた。王都への返答として送れる形に整えた。窓の外で風が木を揺らした。書類の上のインクは、もう乾いていた。


 仕事が届いた。名前が残った。今日はそれだけで十分だった。


 アルドリックが部屋を出ていった後、アイリーンはしばらく机の前に座っていた。書類が整っていた。やることは終わっていた。しかし少しの間、動かなかった。


(……受け取っていいんだ。)


 その確認が、今日静かに完成した気がした。

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