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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第六十話 いてほしいのだ

 アルドリックは執務室に戻ってから、しばらく椅子に座っていた。


 書類があった。今日処理すべき案件があった。手は動かさなかった。


 「……いや」と言った後のアイリーンの顔を、もう一度思い返した。


 ゆっくり顔を上げた。目が合った。「失礼しました」と言ったことを、「いや」という一言で止めた。それで伝わったかどうかはわからなかった。しかし顔を上げた、という事実があった。


(……なぜ謝った。)


 声が揺れたことを「失礼」だと思っている——その習慣がアイリーンの中にある。侯爵家の八年間でできた習慣だ。それが「不当だ」という問題と同じ根にある。


 アルドリックは羽根ペンを手に取ったが、書類には向かわなかった。


 窓の外では夏の光が傾き始めていた。辺境の夕刻は早い。長い影が中庭に伸びていた。


   *


 使者のやりとりを頭の中で振り返った。


 王都から来た使者が、アイリーンに対して「前任の担当者のことを」と問いかけた場面があった。アイリーンは「お断りします」と言った。短く、はっきりと言った。迷いがなかった。


(なぜこの人は断れるのか。)


 侯爵家の令嬢として育ち、八年間無給で仕えた人間が、王都の使者に「断ります」と言えた。それは何から来ているのかを、その場では考えなかった。今になって考えていた。


 「仕事の判断として正しい」という確信があったからだろう。感情から来た言葉ではなく、判断として来た言葉だった。だから声に揺れがなかった。


 しかし「ありがとうございます」は揺れた。


 仕事の言葉ではなかったから揺れた——という解釈が来た。感情の言葉だったから揺れた。八年間言えなかった種類の言葉だったから揺れた。


(……そうか。)


 アルドリックは窓の外を見た。夏の光が低くなっていた。風が木の葉を揺らした。揺れた、という言葉が頭の中で反響した。


   *


 声が揺れた、という事実が頭に残っていた。


 「声が揺れた」——それは何を意味するのか。感情が動いた、ということだ。「不当だ」という言葉が、この人の中の何かを動かした。動いたものが声に出た。


 アルドリックは長い間、感情が「動く」という経験をほとんどしてこなかった。辺境の統治は決断と実務であり、感情は判断の邪魔になると思っていた。感情がないわけではなかったが、表に出すことはなかった。出す必要がなかった、ともいえた。仕事の場では、言葉は決断を伝えるためにあった。感情を伝えるためにある、とは思っていなかった。


 しかしアイリーンが来てから、変わった何かがあった。


「お断りします」という言葉を初めて聞いたとき、驚いた——そのことを今日は正確に思い出せた。仕事の判断として「正しい」と思うより前に、その声の調子に驚いた。「この人はここでこう言える」という驚きがあった。


 その後の時間でも、何度かそういう驚きがあった。数字を見る目の鋭さへの驚き。農村の調査への迷いのなさへの驚き。書類を積み上げながら顔色ひとつ変えずに「三日でできます」と言った言葉への驚き。「不当だ」と言ったときの静けさへの驚き。


(……驚いていた。)


 その驚きが今どこにあるかというと——


「……そうか」


 声に出た。独り言だった。執務室に一人だったから、誰も聞いていなかった。


(私はこの人にいてほしいのだ。)


 内側で言葉が完成した。「いてほしい」という言葉が、今日初めて明確な形として来た。「驚きたい」という意味でも「仕事に必要だ」という意味でも、「統治の助けになる」という意味でもなかった。ただ「いてほしい」だった。


 どう言えばいい——という問いが、すぐに続いた。


「いてほしい」という感情は今わかった。しかしそれをどう伝えるかは、まったく別の問題だった。仕事の言葉で伝える話ではなかった。感情の言葉は、仕事の言葉とは違う。その違いが今日はっきりした。


(……どう言えばいい。)


 答えが来なかった。夏の夕方の光が執務室の床に長く伸びた。書類がそのまま残っていた。今日はここまでだ、と思った。


   *


 廊下で人の気配がして、アルドリックは顔を上げた。


 リンデが廊下の端に見えた。何か仕事で通りかかったらしかった。しかしアルドリックが椅子に座ったまま動かないのに気づいて、一瞬足を止めた。


 目が合った。リンデが小さく頭を下げた。


 アルドリックは何も言わなかった。リンデも何も言わなかった。そのまま廊下を歩いていった。


(……見られた。)


 少し間の抜けた感触があった。「どう言えばいい」という問いのまま止まっていたところを、長年仕えてきた家令に見られた。


 リンデには伝わっただろう、とは思わなかった。思わなかったが、何かが伝わった気もした。長く仕えてきた人間は、言葉がなくても読む。それはわかっていた。


 明日、王都から書状が来るという報告があった。税制改革についての問い合わせがある可能性がある、と昨日部下から聞いていた。


 それを明日アイリーンに見せなければならない、という実務の考えが戻ってきた。


(……仕事から始めよう。)


 どう言えばいいかは、まだわからなかった。しかし「言わなくていい」という選択肢は、今日から選べなくなっていた。

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