表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/70

第五十九話 いや

 翌朝、アイリーンは財務棟に入ったとき、昨日のことをまだ少し引きずっていた。


 「ありがとうございます」という声が揺れた。揺れたことは自分でわかっていた。揺れたまま出た言葉を、アルドリックが「……そうか」と受け取ってくれた。それが昨夜の最後の確認だった。


 帳簿を開いた。数字があった。手を動かした。


(揺れた。)


 恥ずかしかったかというと、違った。ただ、揺れた事実が今も少し頭に残っていた。侯爵家で八年間、声が揺れたことはなかった。感謝を言う機会がなかった、ともいえた。あったとしても、言わなかったかもしれなかった。


 「ありがとうございます」は、侯爵家では毎日言っていた。仕事の礼として言っていた。「この書類を届けてくれてありがとう」「計算をまとめてくれてありがとう」という種類の言葉として。慣れた言葉だった。声が揺れることなど、一度もなかった。


 しかし昨日の「ありがとうございます」は別の意味だった。八年間のことを「不当だ」と言ってくれた相手への言葉だった。その種類の感謝を声にしたことが昨日は初めてで、だから揺れた。


 アイリーンはペンを持ち直した。今日の仕事があった。


   *


 アルドリックが財務棟に来たのは、午前の作業が一段落した頃だった。


「少し時間があるか」


「……はい」


 椅子を引いて、向かい合った。アルドリックの手には書類がなかった。今日も、仕事の話ではないとわかった。


 沈黙があった。アルドリックが何かを言おうとして、少し止まった。


「昨日のことだが」


「……はい」


「声が揺れた」


 アイリーンは少し顔を伏せた。否定はしなかった。したところで、事実はそうだった。声は揺れた。揺れたことはアルドリックにも聞こえていた。今さら「揺れていません」とは言えなかった。


「……失礼しました」


 言葉が出た。反射的に出た。「感情が表に出た。申し訳ありません」という意味として出た言葉だった。侯爵家での習慣として出た言葉だった。感情が見えたときは謝る——その習慣が八年間で体に入っていた。


 アルドリックが少しの間を置いた。


「……いや」


 短い言葉だった。「いや」というだけだった。しかしその「いや」は「失礼ではない」という意味だった。「謝らなくていい」という意味だった。アルドリックがそれ以上言葉にしなかったのは、言葉にする必要がないと思ったからか、言葉にする手段がなかったからか、アイリーンにはわからなかった。


 しかし「いや」という一言が来た。


 アイリーンはゆっくり顔を上げた。


 アルドリックがこちらを見ていた。何かを言おうとした様子ではなく、ただ静かにこちらを見ていた。目に圧があるわけではなかった。ただ、こちらを見ていた。


(……受け取ってくれた。)


 昨日の「そうか」が受け取りだった。今日の「いや」も受け取りだった。種類の違う受け取りが、二日続けて来た。


 怖いかというと、そうではなかった。「受け取ってもらえた」という事実が先に来て、怖さが来る前に温かかった。「受け取られた」という感触が、「怖い」という感情より早く来た。


「引き続き、よろしくお願いします」とアイリーンは言った。仕事の言葉だった。しかし今日はその言葉が仕事だけの意味ではなかった。「ここにいさせてください」という意味が少し入っていた。


「ああ」とアルドリックが短く言った。


 窓の外から夏の光が入っていた。執務室に穏やかな時間が残った。


   *


 午後の作業中、アイリーンは今日の「いや」をもう一度頭の中で聞き返した。


 短い言葉だった。それだけだった。しかし長い言葉より多くのことが来た気がした。「謝らなくていい」「揺れることは失礼ではない」「あなたが揺れた事実を、私は正しく受け取った」——そのすべてが「いや」という一言に入っていた。


(この人の言葉は短い。)


 そして短いからこそ、余白がある。その余白に自分が何かを読む。読んだものが本当にそこにあるかどうかはわからない——しかし、大きく外れていない気がした。


 昨日と今日で、何かが完成した感触があった。


 「不当だ」と「いや」という二つの言葉。どちらも短かった。どちらも声に力があった。どちらも、アイリーンが長い時間かかえていたものを、ひと言で変えた。


 帳簿の数字を追った。計算した。数字が合った。


 今日もその瞬間が好きだった。


 夕刻、アルドリックが財務棟の前の廊下を通りすぎるのが見えた。一度こちらに目を向けた。目が合った。アルドリックは何も言わずにそのまま歩いていった。


 アイリーンはペンを持ち直した。仕事の続きがあった。


(……受け取ってしまった。)


 そう思ったら、少し胸の奥が温かくなった。温かいまま、今日の仕事が続いた。


 部屋に戻ってから窓の外の夏の夜を少し見た。辺境の星が多かった。


 アルドリックが一人で執務室に戻っていく姿を、廊下の向こうで想像した。何を考えているだろう、とは思わなかった。ただ、「一人でいる」という事実を、今日初めて少し意識した。


 その人が一人でいるということを、なぜか今日は少し思った。


 明日もここで仕事をする。それだけが今わかっていることだった。それだけで、今夜は十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ