第五十九話 いや
翌朝、アイリーンは財務棟に入ったとき、昨日のことをまだ少し引きずっていた。
「ありがとうございます」という声が揺れた。揺れたことは自分でわかっていた。揺れたまま出た言葉を、アルドリックが「……そうか」と受け取ってくれた。それが昨夜の最後の確認だった。
帳簿を開いた。数字があった。手を動かした。
(揺れた。)
恥ずかしかったかというと、違った。ただ、揺れた事実が今も少し頭に残っていた。侯爵家で八年間、声が揺れたことはなかった。感謝を言う機会がなかった、ともいえた。あったとしても、言わなかったかもしれなかった。
「ありがとうございます」は、侯爵家では毎日言っていた。仕事の礼として言っていた。「この書類を届けてくれてありがとう」「計算をまとめてくれてありがとう」という種類の言葉として。慣れた言葉だった。声が揺れることなど、一度もなかった。
しかし昨日の「ありがとうございます」は別の意味だった。八年間のことを「不当だ」と言ってくれた相手への言葉だった。その種類の感謝を声にしたことが昨日は初めてで、だから揺れた。
アイリーンはペンを持ち直した。今日の仕事があった。
*
アルドリックが財務棟に来たのは、午前の作業が一段落した頃だった。
「少し時間があるか」
「……はい」
椅子を引いて、向かい合った。アルドリックの手には書類がなかった。今日も、仕事の話ではないとわかった。
沈黙があった。アルドリックが何かを言おうとして、少し止まった。
「昨日のことだが」
「……はい」
「声が揺れた」
アイリーンは少し顔を伏せた。否定はしなかった。したところで、事実はそうだった。声は揺れた。揺れたことはアルドリックにも聞こえていた。今さら「揺れていません」とは言えなかった。
「……失礼しました」
言葉が出た。反射的に出た。「感情が表に出た。申し訳ありません」という意味として出た言葉だった。侯爵家での習慣として出た言葉だった。感情が見えたときは謝る——その習慣が八年間で体に入っていた。
アルドリックが少しの間を置いた。
「……いや」
短い言葉だった。「いや」というだけだった。しかしその「いや」は「失礼ではない」という意味だった。「謝らなくていい」という意味だった。アルドリックがそれ以上言葉にしなかったのは、言葉にする必要がないと思ったからか、言葉にする手段がなかったからか、アイリーンにはわからなかった。
しかし「いや」という一言が来た。
アイリーンはゆっくり顔を上げた。
アルドリックがこちらを見ていた。何かを言おうとした様子ではなく、ただ静かにこちらを見ていた。目に圧があるわけではなかった。ただ、こちらを見ていた。
(……受け取ってくれた。)
昨日の「そうか」が受け取りだった。今日の「いや」も受け取りだった。種類の違う受け取りが、二日続けて来た。
怖いかというと、そうではなかった。「受け取ってもらえた」という事実が先に来て、怖さが来る前に温かかった。「受け取られた」という感触が、「怖い」という感情より早く来た。
「引き続き、よろしくお願いします」とアイリーンは言った。仕事の言葉だった。しかし今日はその言葉が仕事だけの意味ではなかった。「ここにいさせてください」という意味が少し入っていた。
「ああ」とアルドリックが短く言った。
窓の外から夏の光が入っていた。執務室に穏やかな時間が残った。
*
午後の作業中、アイリーンは今日の「いや」をもう一度頭の中で聞き返した。
短い言葉だった。それだけだった。しかし長い言葉より多くのことが来た気がした。「謝らなくていい」「揺れることは失礼ではない」「あなたが揺れた事実を、私は正しく受け取った」——そのすべてが「いや」という一言に入っていた。
(この人の言葉は短い。)
そして短いからこそ、余白がある。その余白に自分が何かを読む。読んだものが本当にそこにあるかどうかはわからない——しかし、大きく外れていない気がした。
昨日と今日で、何かが完成した感触があった。
「不当だ」と「いや」という二つの言葉。どちらも短かった。どちらも声に力があった。どちらも、アイリーンが長い時間かかえていたものを、ひと言で変えた。
帳簿の数字を追った。計算した。数字が合った。
今日もその瞬間が好きだった。
夕刻、アルドリックが財務棟の前の廊下を通りすぎるのが見えた。一度こちらに目を向けた。目が合った。アルドリックは何も言わずにそのまま歩いていった。
アイリーンはペンを持ち直した。仕事の続きがあった。
(……受け取ってしまった。)
そう思ったら、少し胸の奥が温かくなった。温かいまま、今日の仕事が続いた。
部屋に戻ってから窓の外の夏の夜を少し見た。辺境の星が多かった。
アルドリックが一人で執務室に戻っていく姿を、廊下の向こうで想像した。何を考えているだろう、とは思わなかった。ただ、「一人でいる」という事実を、今日初めて少し意識した。
その人が一人でいるということを、なぜか今日は少し思った。
明日もここで仕事をする。それだけが今わかっていることだった。それだけで、今夜は十分だった。




