第五十八話 それは不当だ
翌日、アルドリックが財務棟に来た。
いつもと違う時間だった。朝早く、アイリーンが帳簿を開いたばかりの頃だった。
「昨日の続きをしてもいいか」
「はい」
アルドリックが椅子を引いた。書類を持っていなかった。今日も、手に何もなかった。
「昨日聞いた話を、少し考えていた」
「……はい」
「役職なし、報酬なし、評価なし。八年間」
「はい」
アルドリックが少し間を置いた。
「……それは、不当だ」
声が低かった。いつもより少し力があった。「わかった」でも「そうか」でもなく、「不当だ」という言葉が来た。
アイリーンは言葉を失った。
(不当——)
その言葉を受け取ろうとした。「不当」という言葉は、「間違っている」という意味だった。「ロランの行為が間違っていた」という評価だった。アルドリックが、八年間のことを「間違っていた」と言った。
何かがほぐれる感覚があった。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。長い時間をかけて積み上がっていた何かが、その一言でほぐれた。「誰かに間違いだと言われた」という事実が来て、ほぐれた。
「あなたの仕事は、正当に評価されるべきだったはずだ」
アルドリックが続けた。
「あなたの仕事は正当に評価されるべきだった」——その言葉が来て、目の裏が少し熱くなった。こらえた。顔に出さなかった。声を出さなかった。
しかし「ありがとうございます」という言葉が喉まで来た。
「……」
声が出なかった。少し、詰まった。
アルドリックが黙って待っていた。急かさなかった。
(この人は待ってくれる。)
そう思ったら、少し呼吸ができた。
「……ありがとう——」
声が途中で揺れた。
「ありがとうございます」という言葉が揺れた。はっきり声に出した言葉が、少しだけ揺れた。
侯爵家での八年間で一度も言えなかった「ありがとうございます」を、今日言おうとして、声が揺れた。
アルドリックが少し前に傾いた。何も言わなかった。しかし近くにいた。
「……ありがとうございます」
二度目は出た。揺れながらも、出た。
アルドリックが「……そうか」と言った。今日の「そうか」は短かった。受け取った、という「そうか」だった。
執務室に沈黙が来た。穏やかな沈黙だった。
アイリーンは目を少し伏せた。目の裏がまだ少し熱かった。しかし涙は出なかった。出さなかった、ともいえた。
長い時間が、今日の一言でほぐれた。
「不当だ」という言葉は、怒りの言葉だった。アルドリックが珍しく感情を出した。しかし怒りを向けるべき場所は、ここにはなかった。「不当だ」という言葉は、過去に向かった言葉だった。
そしてその言葉が来たことで、今の場所がはっきりした。
(ここは、あそこと違う。)
完全な確信として来た。昨日まで「感触として」あったものが、今日は「確信として」来た。
「不当だ」と言ってくれた人が今の場所にいる。「正当に評価されるべきだった」と言ってくれた人がここにいる。
それが今日の確かなことだった。
*
アルドリックがしばらく後に「続きは明日にする」と言った。
「……はい」
「今日は、これで十分だ」
「十分だ」という言葉が、今日は違う意味として来た。仕事の十分ではなく、「今日の話としては十分だ」という意味だった。
アルドリックが部屋を出た。アイリーンは少しの間、執務室に一人でいた。
(言えた。)
「ありがとうございます」という言葉が揺れた。揺れたまま出た。それを受け取ってもらえた。
侯爵家での八年間、誰かに「不当だ」と言ってほしかったか、という問いを自分に向けてみた。
侯爵家にいた間は、そう思わなかった。「思わなかった」のではなく「思う機会がなかった」だったかもしれない。「誰かに言ってほしい」という気持ちを持つ前に、「自分で片付ける」という習慣ができていた。
しかし今日、「不当だ」という言葉が来た。
来た後で気づいた——欲しかったのかもしれない、という感触が。言葉が来るまで気づかなかったが、来てほぐれた何かがある。八年間持っていたもののうち、今日ほぐれたものがある。
財務棟に戻った。
帳簿を開いた。数字があった。今日の仕事があった。
手を動かした。しかし今日は、いつもより少し手が遅かった。今日のことがまだ頭の中にあった。
「それは不当だ」という言葉。「ありがとうございます」という声の揺れ。「今日はこれで十分だ」という言葉。
それが今日の全部だった。
窓の外の夏の空が明るかった。帳簿の数字を追った。計算した。数字が合った。今日もその瞬間が好きだった。
「不当だ」と言われた日の仕事が、静かに続いた。
夜、部屋に戻ってから、今日の「ありがとうございます」の声の揺れをもう一度思い返した。
揺れたことが恥ずかしかったか、というと、そうではなかった。揺れることが自分でも予想外だったが、揺れてよかったと思った。「揺れないように」としてきた時間が長かった。今日は揺れた。それを受け取ってもらえた。
アルドリックが「今日はこれで十分だ」と言った。急かさなかった。待ってくれた。「続きは明日にする」と言って、そのまま静かに部屋を出た。
「この人は待ってくれる」という確認が、今日はより深く来た。
燭台の炎が揺れた。辺境の夏の夜が静かだった。
今日の確信が残っていた。眠れるとわかっていた。




