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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第五十七話 八年です

「話がある」という言葉の後、アルドリックが少し間を置いた。


 言い方を探していた。アイリーンは待った。


「……侯爵家の使者のことは、廊下で少し聞こえた」


「はい」


「引き継ぎ書は全て残した、という言葉と——断った、という言葉が」


「はい」


 アルドリックが窓の外をもう一度見た。それから向き直った。


「……その間、正式に評価されたことはあるか」


(正式に評価された。)


 その問いが来るとは思っていなかった。少し間が空いた。


「……ありませんでした」


 答えた。声は落ち着いていた。しかし自分の口からこの言葉が出たことに、少し驚いた。


「八年間、正式に評価されなかった」という事実は知っていた。侯爵家で毎日そうだったから、知っていた。しかし誰かに言葉として伝えたことがなかった。父への手紙にも、リンデとの会話にも、アルドリックとの問答にも、出てこなかった。「役職がなかった」「報酬がなかった」という事実は以前話した。しかし「評価されなかった」という言葉は、今日初めて出た。


「一度も、か」


 アルドリックが言った。問いではなかった。確認だった。


「……はい」


 答えた。


 アルドリックが黙った。


 その沈黙が、今まで聞いてきた沈黙と違った。「なるほど」の前の沈黙でも、「そうか」の前の沈黙でも、「続けてくれ」の前の沈黙でもなかった。


 何かが積み上がっている沈黙だった。


「……役職がなく、報酬もなく、評価もなく」


 アルドリックが言葉を並べた。


「はい」


「八年間」


「はい」


 三つの確認が来て、三回「はい」と答えた。その三回の「はい」が、今日初めて言葉になった事実だと気づいた。「役職がなく」は以前言った。「報酬もなく」は以前言った。しかし「評価もなく」を加えた三つが並んで確認されたのは今日が初めてだった。


 アルドリックの表情が少し変わった。


(何かを感じている。)


 この人が感情を表に出すことは少なかった。しかし「感情がない」わけではないことは、これまでの時間でわかっていた。今日の沈黙は、何かを感じている沈黙だった。それが感じ取れた。


「……ありがとうございます。言っていただいて」


 アイリーンが静かに言った。


 なぜそう言ったか、自分でもすぐにはわからなかった。「聞いてくれた」という感謝だったかもしれなかった。「言葉にする機会を作ってくれた」という感謝だったかもしれなかった。


 しかし「ありがとうございます」という言葉が、自然に出た。


 アルドリックが「……そうか」と言った。


 その「そうか」の後、また沈黙が来た。今日の沈黙はどれも長かった。


 窓の外の空が夕暮れに差し掛かっていた。今日は話が長い、とアイリーンは思った。仕事の確認ではない時間が続いていた。


 アルドリックが、また口を開こうとした。


「……あなたの仕事は、何年も前から正確だった」


「はい」


「覚書を読んだとき、問題の設定が正確だと思った。辺境に来て、帳簿の整理の速さと精度に、それが確認された」


「……ありがとうございます」


「その仕事の質が、八年間、評価されなかった」


 アルドリックが言い方を変えた。「評価されなかった」ではなく「その仕事の質が評価されなかった」という言い方をした。「あなた」ではなく「仕事の質」に主語を置いた。


(仕事の質が——)


 その言い方が来たとき、何かが静かに動いた。「仕事が評価されなかった」という言い方は、仕事への評価を中心に置いていた。「あなたが評価されなかった」という言い方とは少し違った。


「覚書は、余暇に書いた、と言っていたな」


「はい。侯爵家での仕事の合間に」


「仕事の合間に、仕事より精度の高いものを書いた」


 アイリーンは少し止まった。


(そういう言い方をするのか。)


 「仕事より精度の高いもの」という言い方だった。覚書は侯爵家の仕事の外で書いた。侯爵家の仕事は誰にも評価されなかった。しかし覚書は辺境に届いた。「仕事の合間に書いたものの方が、仕事として機能した」という事実がそこにあった。


「……そうかもしれません」


「それだけの力がある人間が、役職もなく、報酬もなく、評価もなく八年間いた」


 アルドリックが静かに言った。感情的な言い方ではなかった。しかしその言葉の重さが、今日の執務室にあった。


「……はい」


 アイリーンは答えた。


 その「はい」を言いながら、少し呼吸が変わった。「言葉にしたことのない事実を言葉にした」という変化が、今日何度目かに来た。「八年間評価されなかった」という事実を、今日は誰かに伝えた。伝えた相手が受け取った。受け取って、言葉にして戻してきた。


 侯爵家での八年間が、今日初めて別の形で言葉になった。


 アルドリックがもう一度窓の外を見た。夕暮れが深くなっていた。


「……今日、話してくれてありがとう」


「いいえ」


「続きは——また別の日にする」


「はい」


 それで今日の執務室が終わった。アイリーンは一礼して部屋を出た。


 廊下に出た。夕暮れの光が差し込んでいた。


 今日は、色々なことがあった。使者が来た。断った。廊下で「何年だ」と聞かれた。執務室で「評価されなかった」という言葉を言った。受け取ってもらえた。


 その全部が今日のことだった。


 少し疲れた気がした。しかし疲れの中に、何か軽くなったものがあった。

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