第五十六話 何年だ
午後の執務室への呼び出しまで少し時間があった。
アイリーンは廊下を歩きながら、今朝の応接の間でのことをもう一度整理した。「引き継ぎ書は全て残してまいりました」という言葉を言ったとき、八年分の仕事がそこに入っていた。「お断りします」と言ったとき、何も揺れなかった。それが「完結した」という感触の意味だった。
廊下の先で、アルドリックがいた。
執務室の方から来ていた。書類を手に持っていたが、歩く速さが普段と違った。少し速かった。
アイリーンの方に向かってきた。
(……何だろう。)
アルドリックが近づいてきた。少し離れた位置で止まった。書類を持ったまま、アイリーンを見た。
無言だった。
何かを確認しようとしているような間があった。「何の話だろう」という状態でアイリーンがいると、アルドリックが口を開いた。
「……何年だ」
問いの意味を、一瞬探った。「何年」。文脈から「侯爵家にいた年数のこと」だとわかった。
なぜ問うのかはわからなかった。
しかし「この問いには正直に答えるべきだ」という感触が来た。感情的な判断ではなかった。この人の問いには必ず理由がある、という経験からくる信頼だった。「数字を組む順番は」という問いにも、「なぜ仕事に入り込めるのか」という問いにも、理由があった。今日の「何年だ」にも、理由があるはずだった。
少し間が空いた。
「……八年です」
答えた。
アルドリックが黙った。「八年」という言葉を受け取った後、すぐに次の言葉が来なかった。
廊下に静けさがあった。
「役職なしで」
アルドリックが続けた。問い方ではなく、確認するような言い方だった。
「はい」
「報酬なしで」
「はい」
また静けさが来た。アルドリックの表情が少し変わった。何かを考えている間があった。
「……引き継ぎ書を書いた」
「はい。五枚、書きました」
「今日の言葉を聞いた」
「今日の言葉」——応接の間での言葉を、聞いていたということだった。廊下にいたから、声が届いたのかもしれなかった。あるいは近くにいたのかもしれなかった。
「……はい」
「そうか」
アルドリックが「そうか」と言って、少し目を細めた。その「そうか」は今まで聞いてきた「そうか」と少し違った。何かを受け取った、という意味では同じだったが、今日の「そうか」には何か別のものが入っていた。
「午後は予定通り来てくれ」
「はい」
アルドリックが歩き始めた。元の方向に歩き去った。
アイリーンは廊下に少しの間立っていた。
(「八年」という言葉を受け取った後の、あの間——)
「役職なしで」「報酬なしで」という確認が来た。「引き継ぎ書を書いた」という言葉が来た。アルドリックが今日の応接の間での言葉を聞いていた。
何かを考えていた。
「午後は予定通り来てくれ」という言葉が最後に来た。それで廊下が終わった。
午後の呼び出し。その時間に何があるか、今はわからなかった。
財務棟に戻った。帳簿を開いた。午後まで、仕事があった。
*
帳簿の数字を追いながら、さきほどの廊下のことを少し考えた。
「八年です」と答えた。「役職なしで」と確認された。「報酬なしで」と確認された。「引き継ぎ書を書いた」と確認された。「今日の言葉を聞いた」という確認が来た。
アルドリックが廊下で確認したかったのは何だったのか。
「八年という時間の長さ」か。「役職なしで報酬なしだった、という事実」か。「それでも引き継ぎ書を書いた、という事実」か。「断った、という事実」か。
(全部かもしれない。)
確認したかった全部が、あの短い問答に入っていた気がした。
アルドリックが「そうか」と言った後の間が、今日は今まで一番長かった。何かを考えていた。考えた後に「午後は予定通り来てくれ」と言った。それが今日の廊下の終わりだった。
「午後に何かがある」という予感があった。
改革案の次の段階の話かもしれなかった。来期予算書の補足かもしれなかった。あるいは——「何年だ」という問いの続きかもしれなかった。
どれかはわからなかった。しかしアルドリックが「理由のない問いをしない」人間だということは、これまでの時間でわかっていた。今日の問いにも理由があった。今日の呼び出しにも理由がある。
帳簿を閉じた。時間が来た。
執務室に向かった。廊下を歩きながら、「今日の午後」が何かを思いながら歩いた。
扉をノックした。「入れ」という声が来た。
扉を開けた。アルドリックが机の前に立っていた。書類を手に持っていなかった。
それが今日の最初の違いだった。
いつもは帳簿か書類を持っている。執務室でアイリーンと向き合うとき、書類が手にある。それが確認の時間の形だった。今日は手に何もなかった。
「来てくれたか」
「はい」
アルドリックが少し間を置いた。窓の外の辺境の空を一度見た。それからアイリーンを見た。
「……話がある」
その一言が、今日の午後の始まりだった。「改革案の話ではない」という気がした。来期予算書の補足でもない気がした。
アルドリックの表情が、今日は少し違った。何かを言おうとしていた。しかし言い方を探していた。この人が言い方を探すとき、少し時間がかかる——これまでの時間でわかっていた。
待った。




