表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/70

第五十六話 何年だ

 午後の執務室への呼び出しまで少し時間があった。


 アイリーンは廊下を歩きながら、今朝の応接の間でのことをもう一度整理した。「引き継ぎ書は全て残してまいりました」という言葉を言ったとき、八年分の仕事がそこに入っていた。「お断りします」と言ったとき、何も揺れなかった。それが「完結した」という感触の意味だった。


 廊下の先で、アルドリックがいた。


 執務室の方から来ていた。書類を手に持っていたが、歩く速さが普段と違った。少し速かった。


 アイリーンの方に向かってきた。


(……何だろう。)


 アルドリックが近づいてきた。少し離れた位置で止まった。書類を持ったまま、アイリーンを見た。


 無言だった。


 何かを確認しようとしているような間があった。「何の話だろう」という状態でアイリーンがいると、アルドリックが口を開いた。


「……何年だ」


 問いの意味を、一瞬探った。「何年」。文脈から「侯爵家にいた年数のこと」だとわかった。


 なぜ問うのかはわからなかった。


 しかし「この問いには正直に答えるべきだ」という感触が来た。感情的な判断ではなかった。この人の問いには必ず理由がある、という経験からくる信頼だった。「数字を組む順番は」という問いにも、「なぜ仕事に入り込めるのか」という問いにも、理由があった。今日の「何年だ」にも、理由があるはずだった。


 少し間が空いた。


「……八年です」


 答えた。


 アルドリックが黙った。「八年」という言葉を受け取った後、すぐに次の言葉が来なかった。


 廊下に静けさがあった。


「役職なしで」


 アルドリックが続けた。問い方ではなく、確認するような言い方だった。


「はい」


「報酬なしで」


「はい」


 また静けさが来た。アルドリックの表情が少し変わった。何かを考えている間があった。


「……引き継ぎ書を書いた」


「はい。五枚、書きました」


「今日の言葉を聞いた」


 「今日の言葉」——応接の間での言葉を、聞いていたということだった。廊下にいたから、声が届いたのかもしれなかった。あるいは近くにいたのかもしれなかった。


「……はい」


「そうか」


 アルドリックが「そうか」と言って、少し目を細めた。その「そうか」は今まで聞いてきた「そうか」と少し違った。何かを受け取った、という意味では同じだったが、今日の「そうか」には何か別のものが入っていた。


「午後は予定通り来てくれ」


「はい」


 アルドリックが歩き始めた。元の方向に歩き去った。


 アイリーンは廊下に少しの間立っていた。


(「八年」という言葉を受け取った後の、あの間——)


 「役職なしで」「報酬なしで」という確認が来た。「引き継ぎ書を書いた」という言葉が来た。アルドリックが今日の応接の間での言葉を聞いていた。


 何かを考えていた。


 「午後は予定通り来てくれ」という言葉が最後に来た。それで廊下が終わった。


 午後の呼び出し。その時間に何があるか、今はわからなかった。


 財務棟に戻った。帳簿を開いた。午後まで、仕事があった。


   *


 帳簿の数字を追いながら、さきほどの廊下のことを少し考えた。


 「八年です」と答えた。「役職なしで」と確認された。「報酬なしで」と確認された。「引き継ぎ書を書いた」と確認された。「今日の言葉を聞いた」という確認が来た。


 アルドリックが廊下で確認したかったのは何だったのか。


 「八年という時間の長さ」か。「役職なしで報酬なしだった、という事実」か。「それでも引き継ぎ書を書いた、という事実」か。「断った、という事実」か。


(全部かもしれない。)


 確認したかった全部が、あの短い問答に入っていた気がした。


 アルドリックが「そうか」と言った後の間が、今日は今まで一番長かった。何かを考えていた。考えた後に「午後は予定通り来てくれ」と言った。それが今日の廊下の終わりだった。


 「午後に何かがある」という予感があった。


 改革案の次の段階の話かもしれなかった。来期予算書の補足かもしれなかった。あるいは——「何年だ」という問いの続きかもしれなかった。


 どれかはわからなかった。しかしアルドリックが「理由のない問いをしない」人間だということは、これまでの時間でわかっていた。今日の問いにも理由があった。今日の呼び出しにも理由がある。


 帳簿を閉じた。時間が来た。


 執務室に向かった。廊下を歩きながら、「今日の午後」が何かを思いながら歩いた。


 扉をノックした。「入れ」という声が来た。


 扉を開けた。アルドリックが机の前に立っていた。書類を手に持っていなかった。


 それが今日の最初の違いだった。


 いつもは帳簿か書類を持っている。執務室でアイリーンと向き合うとき、書類が手にある。それが確認の時間の形だった。今日は手に何もなかった。


「来てくれたか」


「はい」


 アルドリックが少し間を置いた。窓の外の辺境の空を一度見た。それからアイリーンを見た。


「……話がある」


 その一言が、今日の午後の始まりだった。「改革案の話ではない」という気がした。来期予算書の補足でもない気がした。


 アルドリックの表情が、今日は少し違った。何かを言おうとしていた。しかし言い方を探していた。この人が言い方を探すとき、少し時間がかかる——これまでの時間でわかっていた。


 待った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ