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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第五十五話 お断りします

「引き継ぎ書は全て残してまいりました」


 アイリーンは静かに口を開いた。


「項目別に五枚。索引もつけています。月次集計の手順も、年次予算の立案の手順も、税収試算の方法も、全部書きました。それ以上、私がお返しするものはありません」


 カールフが少し前に傾けていた体が、止まった。


「……ありがとうございます」


 アイリーンは言った。


「でも——お断りします」


 声は上がらなかった。怒りがなかったから、声が荒くならなかった。穏やかな一言だった。しかしその穏やかさの中に、揺らぎが一切なかった。


 カールフが少し息を吸った。


「しかし——財務の状況が」


「理由をお伝えする必要もないかと思いますが」


 アイリーンが遮った。感情的な遮り方ではなかった。「続けても変わらない」という事実を、静かに伝えた。


「私はここでの仕事があります。辺境の改革案が進行中です。来期の予算書が今朝完成しました。次の段階があります。それを続けることが、私の仕事です」


 カールフが言葉を失った。


 応接の間に静けさが来た。


 カールフが少しの間、何かを言おうとして、言えなかった。「婚約について」という言葉を準備していたのかもしれなかった。「身分の件について」という言葉もあったかもしれなかった。しかしアイリーンの「お断りします」は、そういう言葉が入る余地を残していなかった。


 穏やかに、完全だった。


「……承知しました」


 カールフが立ち上がった。一礼した。


「遠路お越しいただいたのに、ご期待に添えず、申し訳ありません」


 アイリーンも立った。


「お越しいただいたこと自体は、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」


 それだけ言った。


 カールフが部屋を出た。


 扉が閉まった。


 アイリーンは少しの間、応接の間に一人でいた。


(終わった。)


 その感触があった。清々しさではなかった。達成感でもなかった。ただ「完結した」という感覚があった。八年間と、今日のこの部屋が、一本の線で繋がって終わった。


 目を少し閉じた。


 引き継ぎ書を五枚書いた。索引をつけた。できることを全部やって出た。その先は自分の責任ではない——そう決めていた。そして今日、「断ること」で侯爵家との話が終わった。引き継ぎ書という形でできる最善をして、断るという形で自分の場所を確認した。


 両方が今日、揃った。


 扉の外でリンデの気配がした。


 アイリーンは目を開いた。応接の間の朝の光がきれいだった。窓の外に辺境の空があった。


 廊下に出た。


 廊下の向こうに、アルドリックがいた。


 書類を持って、廊下の端に立っていた。いつもの執務の歩き方ではなかった。少し止まっていた。応接の間の方向を向いていた。


 アイリーンと目が合った。


 アルドリックが少し間を置いて、「……終わったか」と言った。


「はい」


「そうか」


 それだけだった。アルドリックが歩き始めた。通り過ぎるかと思ったが、止まった。


「……今日の午後、時間があるか」


「来期予算書の提出以降は、特に予定はありません」


「執務室に来てくれ」


「はい」


 アルドリックが歩き去った。


 アイリーンは廊下に少しの間立っていた。


(今日の午後——)


 何の話かはわからなかった。来期予算書の補足確認かもしれなかった。改革案の次の段階かもしれなかった。


 しかし「今日の午後に来てくれ」という言葉が、今朝「終わった」という感触の後に来た。「終わった」の次に「来てくれ」という言葉があった。


 財務棟に戻った。


 帳簿を開いた。今日の仕事があった。使者への対応が終わった。次の段階に入る。辺境の仕事が続く。


 「断ることは決まっていた」という言葉が今日の朝に確認できた。決まっていた通りに決まった。揺れなかった。怒りもなかった。ただ「完結した」という感触があった。


 侯爵家での八年間がどこかに完全に落ち着いた気がした。「報われなかった時間」ではなく「今につながった時間」として。覚書を書かせた時間として。辺境に来る縁を作った時間として。


 引き継ぎ書を書いた。誠実に仕事をした。その仕事が今日の「お断りします」を静かにさせた。怒りがなかったのは、仕事で区切りがついていたからだった。


 帳簿を確認した。今日の数字があった。計算した。合った。


(数字が合う瞬間が好き。)


 今日も好きだった。使者が来ても、断っても、その感触は変わらなかった。それが今の場所だった。


 午後の執務室への呼び出しが、今日の続きとして静かに待っていた。


 昼過ぎ、リンデが財務棟に来た。


「使者の方は出発されました。お一人でお越しになったようで、少し驚いていましたが」


「そうですか」


「……アイリーン様、お疲れではないですか」


 リンデが少し心配そうだった。


「いいえ。大丈夫です」


「そうですか。……よかったです」


 リンデが「よかったです」と言った。それだけだった。しかしその「よかったです」の中に、色々なものが入っていた気がした。心配していた、安心した、アイリーンの選択を正しいと思っている——そういうものが静かに入っていた。


「ありがとうございます」


「いいえ」


 リンデが出ていった。


 アイリーンは茶を受け取った。温かかった。リンデの気遣いが、温かかった。


 午後の執務室への呼び出しまで、まだ少し時間があった。帳簿を続けた。数字があった。問いがあった。答えを追った。今日の午前に「終わった」という感触があった。今日の午後に「続き」があった。


 それが今の場所の形だった。

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