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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第五十四話 身分の件は

 翌日の朝、来期予算書をアルドリックに提出してから、応接の間に向かった。


 昨日の「明日、改めてお答えします」という言葉の通り、カールフが待っていた。昨日より少し緊張した表情をしていた。


「……本日はお時間をいただきありがとうございます」


「はい」


 アイリーンは座った。


「昨日は現状をお伝えしました。今日は——ご要望の詳細をお伝えしたいと思います」


「聞きます」


 カールフが話し始めた。


「財務管理の担当者に、実質的な欠員が生じており……クロウリー侯爵も大変困っておられます。雇い入れた専門家では、帳簿の全体像を把握するのに時間がかかっており、月次集計はもとより、年次の予算書の作成もめどが立っていない状況で——」


「はい」


「そこで——もしアイリーン様が戻っていただけるなら、財務管理の役職を正式に設けることも……侯爵家として検討する用意があると伺っております」


 アイリーンは黙っていた。


「また、その際には……婚約の件につきましても、ロラン様が再考の余地があるとおっしゃっておられて——」


(やはりそういうことか。)


 静かに確認した。怒りは来なかった。「やはり」という感触だけがあった。


 財務の問題と、婚約の話が一緒に来た。「戻れば財務の役職を出す。婚約についても考え直す」という申し出だった。財務の仕事と婚約という身分を、ロランはまだ取引として扱っていた。八年間、そうだった。今も、そうだった。


 何も変わっていなかった。


「さらに、伯爵家のご身分のことも……以前とは異なる対応を検討しておられると」


 カールフが言い終えた。


 アイリーンは無言のままでいた。


 しばらく間があった。カールフが少し不安そうになった。「反応が見えない」という戸惑いが、わずかに表情に出た。


(怒る必要もない。)


 怒りが来ない自分を確認した。「婚約を再考する」という言葉が来て、怒りが来なかった。悲しみも来なかった。侯爵家での八年間が「もう終わった話」として処理されていることを、今日確認した。


 八年間、誠実に仕事をした。引き継ぎ書を書いた。できることを全部やって出た。その先は自分の責任ではなかった。ロランがどういう形で動いても、それはロランの話だった。


「……お話は、以上ですか」


 静かに聞いた。


 カールフが少し驚いた表情になった。「もう少し何かを言うかと思っていた」という顔だった。


「は、はい。主な内容は……以上です」


「わかりました」


 アイリーンは少しの間を置いた。


 応接の間に朝の光が入っていた。窓の外に辺境の夏の空が見えた。来期予算書を今朝アルドリックに提出した。「一年分の改革の成果が揃っている」という確認が今朝あった。


 今この場所に、仕事がある。続けるべき仕事がある。


(断ることは決まっている。)


 その確認が、今日の朝と何も変わっていなかった。


「では——お返事を申し上げます」


 カールフが体を少し前に傾けた。


 アイリーンは静かに口を開いた。


   *


 応接の間に入る前、財務棟でアルドリックに来期予算書を提出した時間を思い返した。


「一年分の改革の成果が揃いました」と言ったとき、アルドリックが書類を受け取って開いた。段落ごとに確認した。数字を見た。しばらく読んで、「……よく揃えた」と言った。


「よく揃えた」という一言が、今朝の財務棟に落ちた。


 それが今日の朝のことだった。


「財務の役職を正式に設ける」「婚約を再考する」「身分の対応を改める」——侯爵家の使者が今日持ってきた言葉を、今朝の「よく揃えた」という言葉の横に置いた。


 何が違うか。


 「よく揃えた」という言葉は、アイリーンの仕事への評価だった。仕事そのものを見ていた。


「財務の役職を設ける」という言葉は、「戻れば」という条件付きだった。財務の仕事を「戻る動機として使う」という扱い方だった。仕事は手段として置かれていた。


(そういうことか。)


 八年間、その「仕事を手段として使う」扱い方の中にいた。帳簿を整えることが「侯爵家に貢献する」という手段だった。仕事そのものが目的ではなかった——あの場所では。


 今の場所では仕事が仕事として評価される。「よく揃えた」という言葉は「仕事の成果への評価」として来た。


 その違いが、今日の答えの根拠だった。


「では——お返事を申し上げます」と言った後、カールフの返事を待つ間も、今朝の「よく揃えた」という言葉がアイリーンの中にあった。


 揺れなかった。揺れる理由がなかった。


 カールフが体を少し前に傾けた。


 アイリーンは静かに口を開いた。答えは決まっていた。


 「婚約を再考する」という言葉が来ても、怒りが来なかった。それが今日の一つの発見だった。八年前なら——いや、一ヶ月前ですら——何か感情が動いたかもしれなかった。しかし今日は来なかった。


 感情が来なかったのは「感情がない」からではなかった。


 「もう終わった話」として処理されていたから、感情を動かす余地がなかった。「少し、好きかもしれない」という昨夜の言葉が別の場所にあった。今の感情は今の場所にある。侯爵家の話が来ても、今の感情には届かなかった。


 それが今日の答えを静かにした。


 カールフが待っていた。

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