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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第五十三話 使者の到着

 翌朝、リンデが財務棟に来た。


「アイリーン様、少しよろしいですか。クロウリー侯爵家の使者の方が到着されています。財務の件でお話ししたいとのことで——アイリーン様をお呼びしてもよいかと」


「わかりました」


 アイリーンは帳簿を閉じた。立ち上がって、手を軽く整えた。


(来た。)


 昨日から予測していた。来ることはわかっていた。断ることも決まっていた。それが変わっていないことを、廊下を歩きながら静かに確認した。


 応接の間に向かった。廊下を歩きながら「この場で感情を出す必要はない」と思った。出す感情がある、という意味ではなかった。ただ「仕事として対応する」という軸を確認した。それだけだった。


 応接の間に入ると、若い男が立って待っていた。


 侯爵家の家臣の衣装だった。二十代前半ぐらいだろうか。長旅の疲れが顔に少し見えた。「こんな辺境まで来ることになるとは」という感触が、わずかに表情に出ていた。しかし無礼ではなかった。


 アイリーンが入ると、使者が一礼した。


「遠くまで参りました。クロウリー侯爵家より参りました、カールフと申します」


「ローウェン・アイリーンです」


 椅子に座った。使者も座った。


「本日は……財務の件でご協力をお願いできないかと思いまして、参りました」


(やはりそういうことか。)


 静かに確認した。「財務の件でご協力を」。仕事の話として来た。ロランが送り出した使者が持ってきたのは、「仕事として来てほしい」という申し出だった。


「話を聞きましょう」


 とだけ答えた。


 自分の声が少し遠く聞こえた。「話を聞きましょう」という言葉は礼儀から来ていた。最後まで聞く、という意志だった。感情はなかった。仕事として対応していた。


 カールフが少し安堵した表情になった。


「はい。実は、財務の整理の件で……少し手間取っておりまして。以前アイリーン様がいらっしゃった時分の水準に戻すためには、どうしても……」


「具体的にどういう状況なのか、聞かせてください」


 アイリーンが静かに遮った。感情的な遮り方ではなかった。「要点から聞く」という実務的な問い方だった。


 カールフが少し背筋を伸ばした。


「はい。二名の財務の専門家を雇い入れましたが、帳簿の照合が進んでおらず。月次の集計も三ヶ月ほど滞っています。給与の支払いに若干の遅れが——」


「引き継ぎ書は残してあります。五枚、項目別に書いてあります。手順通りに進めましたか」


「……はい。読んでいる、とは聞いていますが、その手順に従っても……専門家が「これは読んでも理解が難しい」と言っているとのことで」


(読んでも理解が難しい。)


 帳簿の基礎が前提だった。それが揃っていなければ手順書を読んでも実行できない。引き継ぎ書の限界がそこにあった。アイリーンにはその説明を加えることはできなかった。どんな人間が来るかわからない以上、基礎は書けなかった。


「……続けてください」


 カールフが話を続けた。アイリーンは聞いていた。


 応接の間の外で、廊下にリンデが控えていた。気配だけがあった。


 断ることは決まっていた。しかしまず全部聞く。それが今の仕事だった。


   *


 カールフが話し続けた。


 三ヶ月間の月次集計の遅れ。給与の支払いが一度遅れたこと。家臣たちの不満が出始めていること。春の税収の確定が遅れていること。来期の予備費の計算ができていないこと。


 アイリーンは黙って聞いた。


(すべて、引き継ぎ書に書いた。)


 月次集計を二週間以内に締めること。遅れると給与に影響する。春の税収は六月末までに確定すること。予備費の計算は税収確定の後。その連鎖を書いた。


 連鎖が崩れていた。


 引き継ぎ書を理解できなかったのか。実行できなかったのか。専門家が基礎から理解していなかったのか。どれかだろうと思った。おそらく複数が重なっていた。


「……以上が現在の状況です。そこでアイリーン様に、一時的にでも戻っていただければ——帳簿の整理と専門家への指導をお願いできればと」


 カールフが言い終えた。


 アイリーンは少しの間、沈黙した。


(一時的にでも。)


 「一時的」という言い方が来た。「仕事が終わったら」という含みがあった。「帳簿が整ったら」「専門家が育ったら」。その後はどうなるか。あの場所での経験が答えていた。


 廊下でリンデの気配がした。


「……今日はここまでにしてください。明日、改めてお答えします」


「は、はい。もちろんです。よろしくお願いします」


 カールフが立ち上がって礼をした。安堵した様子があった。「明日まで」という言葉に「前向きな返事が来るかもしれない」という期待があるのだろう。


 アイリーンは礼を返した。


 応接の間を出た。廊下でリンデが待っていた。


「……いかがでしたか」


「話は聞きました。明日、答えます」


「……そうですか」


 リンデがそれ以上は聞かなかった。


 財務棟に戻った。帳簿を開いた。今日の仕事があった。


 来期予算書の提出が明日のはずだった。明日はアルドリックへの報告と、使者への返答が重なる。どちらが先でも、今日やることは変わらなかった。


 仕事を続けた。帳簿の数字を追った。「断ることは決まっている」という軸が、今日も揺れなかった。

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