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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第五十二話 ここはあそこと違う

 翌朝、帳簿を開きながら、昨夜整理した「でも」の正体を静かに反芻した。


「また必要なくなると言われるのが怖い」


 昨夜、その言葉が浮かんだ。侯爵家での八年間、仕事が終わったら「もう必要ない」という形で終わった。婚約破棄が通告された日、最後の言葉は「後の仕事は別の者に任せる」だった。「人として」ではなく「仕事として」も終わった日だった。


 その記憶が、「少し、好きかもしれない」という感触と一緒に来た。


(仕事が終わったら、また必要なくなる。)


 その恐れの正体がわかった。


 しかし今日の朝、もう一つのことも考えた。


 「ここはあそこと違う」という感触は、ずっとあった。アルドリックが「役職と報酬は正式に出している」と言った。「続けてくれ」と言い続けた。「昨日は家臣の急用があった」と翌朝に伝えに来た。「あなたの成果だ」と言った。「疲れているだろう」と言った。


 侯爵家では、そういうことが一度もなかった。


 「仕事が終わったら必要なくなる」という恐れが正しいとすれば、「ここはあそこと違う」という感触は何を意味するか。


(違う場所だから、違う結末があるかもしれない。)


 その可能性を、今朝は少しだけ持った。完全な確信ではなかった。しかし「ここはあそこと同じだ」という思い込みも、今朝は完全ではなかった。


 帳簿を開いた。今日の仕事があった。


 来期予算書の続き。段階税率の最終調整。越境商人への通知の文案確認。順序立てて進めれば今日中に目処がつく。


 仕事をしながら「また必要なくなると言われるのが怖い」という言葉を、正確に見た。


 「怖い」という感情があった。「怖い」は事実だった。しかし「怖い」から「だから感情を持ってはいけない」という結論は出ていなかった。昨夜、感情と仕事の軸が共存できると気づいた。今朝も、それは変わっていなかった。


 午後、来期予算書の最終確認が終わった。


 明日アルドリックに提出する。一年分の改革の成果が、一冊の予算書に入っていた。段階税率の試算。越境商人の記録方式の変更。月次集計の精度改善。辺境の財務が、初めてきちんとした形を持った。


 それが今日の成果だった。


 リンデが夕方に来た。


「アイリーン様、少しよろしいですか」


「はい」


 リンデの表情が、いつもと少し違った。


「……明日、クロウリー侯爵家の使者と名乗る方が到着される、という連絡が入りました」


 アイリーンは手を止めた。


(来たか。)


 静かにそう思った。揺れなかった。父の手紙の「ロランが動いている」という一行が、現実になった。予測していた。


「……そうですか」


「はい。公爵様はすでにご存じです。「アイリーン様にお知らせするように」とのことでした」


「わかりました」


 リンデが少し間を置いた。


「……お気をつけて」


「はい。ありがとうございます」


 リンデが出ていった。


 財務棟に静けさが戻った。


 明日、使者が来る。断ることは決まっている。軸は揺れていない。今日仕上げた来期予算書が机の上にある。辺境の仕事が続いている。


(断ることは決まっている。)


 今日の感触は、昨日より少し落ち着いていた。「また必要なくなると言われるのが怖い」という恐れは変わらない。しかし「ここはあそこと違う」という感触も変わらない。


 明日が来る。そのときに向かえばよかった。


   *


 夜、来期予算書を最後にもう一度確認した。


 段階税率の試算。農産物と織物の実績値。越境商人への申告期限の前倒し。月次集計の比較基準。全部が揃っていた。辺境に来た最初の日、書類が山積みで索引もなかったあの財務棟が、今は整然とした帳簿と年間予算書を持っている。


 それが今のここだった。


 使者が来る。断る。その後も仕事は続く。来期予算書をアルドリックに提出する。次の段階に入る。


 その流れが見えていた。「使者が来る」という出来事が、この流れを止めるものとは思えなかった。


(断ることは決まっている。後のことも見えている。)


 それで十分だった。


 燭台の前で、「また必要なくなると言われるのが怖い」という言葉を、もう一度見た。恐れは本物だった。しかし明日の使者は「侯爵家に戻れ」という話を持ってくるだろう。それは「仕事が終わる」ではなく「別の場所に移る」という話だった。「必要なくなる」とは違った。


 「断ったら必要なくなる」という恐れも、考えた。しかしアルドリックが「続けてくれ」と言い続けている。「あなたの成果だ」と言った。「断ること」でここの仕事が終わる理由はなかった。


(大丈夫だ。)


 静かにそう思った。


 「ここはあそこと違う」という感触が、今夜は少し確かだった。完全な確信ではなかった。しかし昨夜より少し強かった。


 仕事がある。仕事が続く。それが今の場所だった。


 燭台を消した。明日の朝が来る。そのとき向かえばよかった。


 窓の外で夜風が動いた。辺境の夏の夜は都より少し涼しかった。それが今は少し好きだった。


 「少し、好きかもしれない」という昨夜の言葉が、今夜も静かにそこにあった。使者が来るという事実があっても、その言葉は変わらなかった。変わらないということが、今夜は少し確かだった。

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