表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/70

第五十一話 少し、好きかもしれない

 夜、部屋で窓の外を見ていた。


 今日の仕事のことを考えていたはずが、気づいたら今日の夕方のことを考えていた。「今日は早く上がれ」という言葉。「疲れているだろう」という一言。「今日は十分だ」という判断。


(なぜ、まだそのことを考えているのか。)


 明日の仕事の段取りを整理するつもりだった。来期予算書のどこまで終わっているか、明日どこから再開するか。それを考えれば今夜の整理は終わるはずだった。


 しかし「今日は早く上がれ」という言葉が、繰り返し頭の中に来た。


 繰り返す理由を探した。


 「珍しいことがあったから記憶に残った」という理由は正確ではなかった。珍しいことは今まで色々あった。「なるほど」という言葉があった。「数字通りだ」という評価があった。「あなたの成果だ」という言葉があった。それらは記憶に残ったが、夜に繰り返し頭に来ることはなかった。


(今日は、違う。)


 なぜ違うのかを考えた。「疲れているだろう」という言葉が、他の言葉と違った。仕事への評価ではなかった。数字への確認でもなかった。アイリーン自身への言葉だった。


 「数字が合う瞬間が好きだと聞いてくれた」という記憶が来た。「なるほど、と言って止まっていた」という記憶が来た。「昨日は家臣の急用があった、と翌朝に伝えに来た」という記憶が来た。「あなたの成果だ」という言葉が来た。そして今日の「疲れているだろう」が来た。


 それらを並べたとき、一つの言葉が浮かんだ。


(……少し、好きかもしれない。)


 浮かんだ瞬間に、止まった。


 「好き」という言葉が心の中に来た。正確に言えば「少し、好きかもしれない」という言葉だった。「かもしれない」という留保がついていたが、それでもその言葉は浮かんだ。消えなかった。


「でも」という言葉が続いた。


「でも」の先が、すぐには出なかった。


 仕事で来た。仕事を評価してほしくて来た。仕事で判断される場所を求めて来た。そこに個人的な感情が——「好き」という感情が入ることは、想定していなかった。


(でも、入ってしまった。)


 浮かんでしまった言葉を、なかったことにはできなかった。浮かびかけていたのは、今日だけではなかったかもしれなかった。「今日は変な日だった」という昨夜の感触。「温かかった」という感触。名前のつけられなかった感触たちが、今夜の「少し、好きかもしれない」に集まってきた。


 窓の外の空が暗かった。星がいくつか見えていた。


 長い間、何も考えないようにしようとした。できなかった。


「でも」の先を考えようとした。しかし「でも」の先が何かを、正確に言語化できなかった。何かが怖い。何が怖いのか。仕事に感情が混ざることへの恐れか。「好き」という気持ちを持つことへの恐れか。


 はっきりしなかった。


(……明日、仕事をすればいい。)


 その言葉で夜を閉じようとした。「今夜考えなければならないことはない。明日帳簿を開けばいい。数字を追えばいい。それが続く」。


 窓を閉めた。燭台の前に座った。


 「少し、好きかもしれない」という言葉が、今夜の灯りの前で静かにそこにあった。消えなかった。消さなかった。


 明日、仕事をしよう。それだけを考えて、眠ろうとした。


   *


 眠れなかった時間が少しあった。


 「少し、好きかもしれない」という言葉が浮かんだまま、考えが続いた。「好き」という感情を持つことが、なぜ「でも」につながるのか。


 少しずつ考えた。


 「仕事で来た」という事実がある。評価される場所を求めて来た。仕事が続くことが今の軸だった。その軸に「個人的な感情」が加わることで、軸が揺れる可能性があった。


 ——もし、「好き」という気持ちが届かなかったとしたら。もし、「必要ない」と言われたとしたら。


 「また必要なくなると言われるのが怖い」という言葉が、頭の中に浮かんだ。


(そうか。)


 これが「でも」の正体だった。


 侯爵家での八年間、「仕事が必要とされていた」と思っていたが「人として必要とされていた」かどうかは、一度も確認しなかった。「仕事があれば大丈夫」と思って続けた。そして婚約を破棄されて出た。「もう必要ない」という形で終わった。


 その記憶が今の恐れの根っこにあった。


 「少し、好きかもしれない」という気持ちを持つことは、「また必要なくなるかもしれない」という恐れを同時に持つことだった。仕事だけで関わっている限り、「仕事の成果」で評価できる。しかし「好き」という感情を持った場合、「人として」どう受け取られるかが問題になる。


 それが怖かった。


 「仕事で来た」という言い方は、感情を持つことへの防衛だったかもしれない。「仕事として評価されていれば安全だ」という、長い年月で作られた防衛だった。


 窓の外の星がまだあった。


 「でも」の正体がわかった。しかし正体がわかったからといって、恐れが消えるわけではなかった。


 明日、仕事をする。それだけは変わらない。「少し、好きかもしれない」という感触も変わらない。その二つが今夜並んでいた。どちらかを消す必要はなかった。そのまま共存してよかった。


 そう思ったら、少し眠れた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ