第五十話 今日は早く上がれ
午後の作業の中ほど、アルドリックが財務棟に来た。
アイリーンは来期予算書の最終確認の続きをしていた。数字の列を一行ずつ手で追っていた。
「……今日は早く上がれ」
唐突な一言だった。
アイリーンは手を止めて顔を上げた。
「……いいえ、まだ作業が」
「今日は十分だ」
遮られた。アルドリックが書類を一度見てから、アイリーンを見た。
「疲れているだろう」
(疲れている?)
体調を確認した。体は普通だった。頭が重いわけでも、手が動かないわけでもなかった。今日は普通に作業できていた。
「……いいえ、特に」
「続きは明日でいい。今日は上がれ」
アルドリックがそう言って書類を机に置いた。確認を終えた、という様子だった。
「……わかりました」
答えた。アルドリックが「ああ」と短く頷いて出ていった。
財務棟に静けさが戻った。
アイリーンはしばらく帳簿の前に座ったままだった。「早く上がれ」と言われた。「疲れているだろう」という補足があった。体調は普通だった。「続きは明日でいい」という判断だった。
(仕事の管理として、言っているのだろう。)
そう解釈した。効率を考えれば、無理に続けるより明日に持ち越す方が精度が上がる場合がある。「今日はここまで」という判断を、アルドリックがしたのだろう。
帳簿を閉じた。書類を片付けた。
廊下に出た。歩きながら、「疲れているだろう」という言葉をもう一度考えた。
仕事の管理として言うなら、「今日は十分だ」で十分だった。「疲れているだろう」という言葉は、作業の効率への言葉ではなかった。アイリーン自身への言葉だった。体調への関心だった。
(でも、それだけではないかもしれない。)
その考えが浮かんで、少し止まった。「それだけ」というのは何か。「仕事の管理ではない」という意味か。「別の何かが動機としてある」という意味か。
考えを止めた。
(どちらでも、仕事を続けられているならいい。)
それが今の軸だった。「早く上がれ」と言われたが、「仕事が続く」ことは変わらない。明日も来て、続きをする。それが続いている限り、今日の言葉の動機がどちらでも問題はなかった。
夕食の場でリンデが待っていた。
「今日は早いですね」
「はい。少し早く上がることになりました」
「……公爵様がおっしゃったのですか」
「はい」
リンデが少し何かを考えた。何か言いたそうな間があった。しかし言わなかった。「そうですか」と言って、茶を注いだ。
夕食を食べた。
部屋に戻って、今日の夕方のことを少し思い返した。「疲れているだろう」という言葉。「今日は十分だ」という言葉。明日また仕事ができるという事実。
(少し変な日だった。)
「変な」というのが適切かどうかわからなかった。「普通と違った」とは言えた。「早く上がれ」と言われたこと自体が珍しかった。
燭台の前に座って、今日の仕事の続きのことを少し頭の中で整理した。明日、どこから再開するか。来期予算書のどの欄が残っているか。
しかし仕事のことを考えながら、頭の端に今日の夕方の時間が残っていた。
なぜ残っているのかが、少しわからなかった。
「早く上がれ」と言われた。「疲れているだろう」と言われた。仕事の確認でも、改革案の進捗でも、帳簿の数字でもなかった。「体調を気にした言葉」だった。
アルドリックから、そういう言葉をかけられたのは初めてだった。
侯爵家では、誰もそういう言葉をかけなかった。「疲れているだろう」と言った人はいなかった。仕事が終わったかどうかを確認する人もいなかった。「まだいる」ということを誰も気にしなかった。
ここでは「今日は十分だ」と言われた。
(この人は——)
考えがそこで止まった。「この人は」の続きが出なかった。「気にかけてくれている」という言葉は出てきたが、それを自分の中に置いていいかどうかわからなかった。
「受け取ることへの小さな恐れ」が、また来た。
受け取ったら、どうなるか。何かが変わるか。「気にかけてくれている」という事実を受け取ったら、それに対して何かを感じることになる。感じたら、それを扱わなければならない。扱い方がわからなかった。
だから「仕事の管理として言ったのだろう」という解釈に戻った。それが扱いやすかった。
しかし今夜、頭の端から今日の夕方が消えなかった。
燭台を消した。
眠る前に、もう一度「疲れているだろう」という言葉を思い返した。その言葉が来たとき、少し温かかった。
温かかった、という事実だけを確認した。その先には行かなかった。
でも今夜は眠るまで少し時間がかかった。
理由はわからなかった。「疲れているだろう」という一言が、頭の中でまだ温度を持っていた。侯爵家では誰も言わなかった言葉。ここでは言われた。それだけの話だった。それだけのことが、なぜか今夜は眠る前まで残っていた。
明日、仕事をする。帳簿を開く。来期予算書の続きをする。それが変わらない。
それが変わらない限り、今夜の「温かかった」という感触も消えないままでいい、と思った。消そうとしなくていい。ただ、そこにある。それでいい。
そう思ったら、少し眠れる気がした。




