第四十九話 ロランが動き始めた
翌朝、財務棟で帳簿を開きながら、父の手紙の最後の一行を思い返した。
「ロラン様が最近何か動きを見せているという話が耳に入っております」
「動きを見せている」。何の動きか、父も知らないと書いていた。「念のためお知らせしておきます」という書き方は、「気をつけなさい」という意味ではなかった。「こういう話がある」という事実報告だった。
しかし「ロランが動いている」という情報が来た。
(こちらまで来るつもりかもしれない。)
その可能性を、一度はっきり考えた。
ロランが辺境に使者を送ることを検討している。あるいは使者を出すよう侯爵家に頼んでいる。「財務担当者が足りない」という現状から「以前の担当者を戻す」という方向に動いている——そういう推測ができた。
推測が正しいかどうかはわからなかった。
しかし正しいとしても、答えは一つだった。
(来ても、断るだけのことだ。)
静かにそう思った。感情的な決断ではなかった。仕事で判断するなら、戻る理由がなかった。辺境の仕事がある。アルドリックが「続けてくれ」と言っている。「あなたの成果だ」という言葉があった。「役職と報酬は正式に出している」という場所にいる。
侯爵家に戻る理由が、一つもなかった。
帳簿に向かった。来期予算書の最終確認があった。今日の仕事をした。
*
夕方、リンデが書類を持ってきた。
「いくつかご確認をいただけますか。来期の申告様式の最終版です」
「はい」
書類を受け取った。確認した。三か所、修正を入れた。
リンデが書類を受け取りながら、少し間を置いた。
「近頃、王都方面からの使者が多くなってきていますね」
「……そうですか」
「はい。王都の貴族家から公爵様へのお問い合わせなどが増えているようで」
アイリーンは「そうですね」と答えた。
リンデの言葉は事実の報告だった。「王都方面からの使者」。複数形だった。侯爵家の話ではないかもしれなかった。しかし「念のためお知らせします」という父の手紙と重なった。
(近いかもしれない。)
そう思った。しかし揺れなかった。
「来ても、断ることは決まっています」と自分に言った。言葉に出さなかったが、内心でははっきりしていた。
リンデが「では失礼します」と出ていった。
窓の外が夕暮れになっていた。辺境の春が終わりに近づいていた。夏に向けて日が長くなっていた。
(断ることは決まっている。)
それが揺るがない限り、「来るかもしれない」という事実は問題にならなかった。問題は来てからのことで、来る前から恐れる必要はなかった。
仕事に戻った。今日の最終確認が残っていた。来期予算書の数字を最後まで確認した。誤差がなかった。計算が合った。
「数字が合う瞬間が好き」という自分の言葉を思い出した。今日も好きだった。その感触が、今日の終わりにあった。ロランがどう動いていても、この感触は変わらなかった。
それが今の場所だった。
*
夜、部屋で来期の申告様式の修正版を確認しながら、ロランのことをもう一度考えた。
「動き」の具体的な中身は、父も書かなかった。使者を送ることを検討している可能性。侯爵家から「戻ってこい」という話が来る可能性。ロランが直接辺境まで来る可能性。あるいはまったく違う「動き」かもしれなかった。
どれでも同じだった。
今の仕事がある。アルドリックが認めている。役職と報酬がある。改革案が外に届いた。隣領に問い合わせが来た。概要書類を送付した。仕事が動いている。
その中で「侯爵家に戻る」という選択が入る余地は、どこにもなかった。
(戻る理由がない。)
それは怒りや拒絶から来た言葉ではなかった。純粋に「理由がない」という判断だった。侯爵家にあるものより、今の場所にあるものの方がすべてにおいて大きかった。仕事の質。評価の仕方。人との関わり方。自分が自分でいられる感触。
それを比べたら、答えは一つだった。
修正版の申告様式を閉じた。明日、リンデに渡す。来期の様式が最終版になる。
燭台の炎が揺れた。窓の外で風が動いた。辺境の夜が少し暖かかった。夏が近かった。
侯爵家の動きが何であれ、今夜の自分には関係がなかった。今夜は仕事をして、眠る。明日も同じ。それが積み上がっていく。その積み上がりの中に今の場所がある。
「断ることは決まっている」という確信が、今夜も揺れなかった。それで十分だった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「断ること」は決まっている。しかしアルドリックに話すべきか。「侯爵家から使者が来るかもしれない」という予兆を、先に伝えておくべきか。
迷った末に、「話す必要はない」と思った。確認できていない情報を伝えて、余計な心配をかける必要はなかった。実際に使者が来たとき、その場で対処すればよかった。「断ります」という報告をそのときにすれば十分だった。
アルドリックは「続けてくれ」と言っている。続ける意志は変わらない。その意志が変わらない限り、予兆を事前に伝える必要はなかった。
修正版の申告様式を重ねた。明日の朝、リンデに渡す。
それが今夜の最後の仕事だった。




