第四十四話 この件はどう思う
翌日の午後、アルドリックが財務棟に来て、帳簿の前に座った。
珍しかった。いつもは立ったまま確認する。今日は椅子を引いた。
「来年度の農産物税率の話を聞きたい」
「はい」
アイリーンは集計表を広げた。
「現在の農産物税率は取引量に関わらず一律五パーセントです。来年度は新方式の記録が揃いますので、取引規模別の段階税率を導入できます。小規模商人の負担を軽くして、大規模取引への税率を少し上げる形です」
「どのくらいの差をつける」
「小規模では三パーセント、大規模では七パーセントを試案としています。中規模は現行の五パーセントを維持します。全体の税収は概算で同程度を維持しながら、小規模商人の継続意欲を保てます」
「根拠は」
「小規模商人三名が、今年の春に記録方式の変更で協力しています。彼らの申告内容を見ると、取引規模が限界に近いことがわかります。税率を下げることで、もう一段規模を広げる動機が生まれます。数年後に中規模に移行すれば、全体の税収が増える計算です」
アルドリックが少し考えた。
「その試算は出ているか」
「今週中に出せます。現時点では仮の数字です」
「見せろ」
「はい」
アイリーンが試算書の草案を引き出した。アルドリックが受け取って確認した。
「……この三商人の経緯はどこで確認した」
「春の試験運用の記録です。申告内容と取引の記録を照合しています」
「それは昨年以前のデータもあるか」
「三年分あります。ベルク商会については五年分あります」
「五年か。……三年前と今を比べると」
「取引量が約二十パーセント増えています。ただし増加は二年前から止まっています。現在の税率下では拡大の余力がないと推測されます」
アルドリックが帳簿と試算書を並べて見た。
「……この件は以前の領でも試みたことがあるか」
珍しい問い方だった。「アイリーンが以前どこかで試みたか」という問いだった。
「侯爵家では、このような調整はしませんでしたが——」
言いかけて、少し止まった。
「侯爵家では」という言葉が自分の口から出た。仕事の比較として自然に出た言葉だった。しかし出た後、少し驚いた。侯爵家の仕事の話を「比較」として使ったのは初めてだったかもしれない。
「……侯爵家では」とアルドリックが繰り返した。「それでどうした」
「侯爵家では農産物の取引は一律課税で、段階税率を検討したことはありませんでした。ただ覚書を書いたとき、辺境の文脈では段階税率が有効だと考えていました。その部分を今の試算に応用しています」
「覚書の考え方を使っているのか」
「はい。覚書は侯爵家での実務の経験から書きましたが、辺境の取引構造の方が多様性があるため、より有効に機能します」
アルドリックが少しの間、黙った。
「……そうか」
今日の「そうか」は静かだった。何かを受け取った間があった。
「続けてくれ」
それだけで今日は終わった。
アルドリックが出ていった。アイリーンは試算書を片付けながら、今日の会話を頭の中で辿った。いつもより話した。アルドリックが「続ける」という動きを繰り返した。「以前の領でも」という問いが来た。「侯爵家では」と答えた。
(今日の会話は——)
「仕事の話だったのか」というぼんやりした問いが浮かんで、答えをつけずに置いた。仕事の話だった。しかし質が、いつもと少し違った気がした。
*
夜、部屋で試算書の続きを整理した。
今週中に仕上げる。段階税率の試算を三段階に分けて並べる。それぞれの税収への影響と、商人の動向を踏まえた五年後の予測を添える。
作業しながら「侯爵家では」と言った言葉を思い返した。
「侯爵家では農産物の取引は一律課税で」という事実を、比較として出した。比較として使えた、ということは、「侯爵家での八年間の仕事」を今の場所の仕事と並べて考えられるようになった、ということだった。
(いつからそうなった。)
侯爵家を出たとき、あの場所の仕事を「引き継いで終わり」にしたつもりだった。記憶として残っていたが、比較の材料として使うとは思っていなかった。それが今日、自然に出た。
「覚書の考え方を使っている」という説明も自然に出た。侯爵家での実務が覚書を生んで、覚書が辺境につながった。そのつながりが今日の会話で言葉になった。
アルドリックが「そうか」と言った。静かな「そうか」だった。
侯爵家の話を「仕事の比較」として出したとき、アルドリックは何も言わなかった。「侯爵家では報酬がなかった」という事実は前に話した。今日は「侯爵家では段階税率の検討はなかった」という実務の話だった。それを「覚書の基盤になった経験」として受け取った。
(あの人はちゃんと受け取った。)
「侯爵家では」という言葉を、余計だとも奇妙だとも取らなかった。仕事の比較として受け取って、「覚書の考え方を使っているのか」と続けた。
試算書の一行を書き入れた。計算が合った。今日もそれがあった。
「ここにいる時間の方が長くなってきた」という感触が静かにあった。辺境に来て何週間が経ったか、正確には数えていなかった。しかし「こちら側」が今は当たり前の場所になっていた。




