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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第四十二話 仕事で判断する

 翌朝、目が覚めたときも、昨日の「今日はもういい」がまだ頭の端にあった。


 眠りが浅かった。夜中に「邪魔だったのか」という考えが数度来た。そのたびに「仕事で判断する」という言葉で押さえた。押さえても完全には消えなかった。


 朝の仕度をしながら、もう一度整理した。


 事実として確認できること:農産物の前年比と実績値の差についての説明をしていた。説明の途中で「今日はもういい」と言われた。アルドリックが出ていった。理由の説明はなかった。


 解釈が複数あること:急な用事があった可能性。説明が余計だったと感じた可能性。他に何かあった可能性。


 どの解釈が正しいか、昨夜の段階では確認できなかった。


(仕事の成果で判断するなら、私は間違っていない。)


 説明した内容は正確だった。数字の根拠があった。前年比より実績値を使う方が精度が上がるという指摘は正しかった。説明自体に問題はなかった。


 それが今日の出発点だった。


 財務棟に向かった。帳簿を開いた。今日の作業があった。来期の予算書の農産物の欄を実績値ベースで組み直す。昨日の説明を続けるつもりだった。


   *


 午前の半ば、アルドリックが来た。


「昨日は家臣の急用があった」


 入るなりそれだけ言った。


 アイリーンは手を止めた。


「……そうでしたか」


「説明の途中だったな」


「はい。農産物の実績値についてです」


「続けてくれ」


 短い声だった。


 アイリーンは昨日の続きを始めた。「農産物については実績値で組みます。前年比では約百十万ターレルですが、実績値では百三十万前後になります。この差を予備費の計算に反映します」。


 アルドリックが静かに聞いた。「わかった」と言って、「織物の話もあったか」と問い返した。


「はい。織物については——」


 昨日の「今日はもういい」の直前に言おうとした言葉だった。今日は続けられた。


 説明を終えた。アルドリックが「やれ」と言った。それだけだった。


 アルドリックが出ていった。


 扉が閉まった後、アイリーンは机の前で少しの間静かにいた。


(「家臣の急用があった」。)


 それだけの一言だった。昨夜あれほど考えたことに対して、それだけの一言が来た。「急用があった」という事実の説明。謝罪でも言い訳でもなく、ただ事実を告げた。そしてすぐ「続けてくれ」と言った。


 それで十分だった。


 「邪魔だったのか」という考えが昨夜消えなかった理由がわかった気がした。説明がなかったから。「なぜ切り上げたのか」がわからなかったから。今日の一言で「急用があった」という理由が来た。理由が来たから、考えが落ち着いた。


(この人は説明しない。)


 「今日はもういい」と言うとき、普段は理由を言わない。説明を後回しにする習慣があるのか、必要と感じていないのか。どちらかわからなかった。しかし今日は「家臣の急用があった」と言いに来た。前日の切り上げの理由を、翌朝に伝えに来た。


 それが何かを意味していた。


 侯爵家では、理由が来たことがなかった。突然の切り上げの後、翌日何かを言いに来た人はいなかった。「そういうものだ」と思っていた。


 ここでは理由が来た。


 帳簿を開いた。農産物欄の組み直しを始めた。手の動きが昨日より滑らかだった。集中が戻っていた。


 「仕事で判断するなら間違っていない」という軸が、今日は静かに揺れなかった。


   *


 午後の作業が終わったとき、リンデが茶を持ってきた。


「今日も公爵様がいらっしゃいましたね」


「はい。昨日の続きの確認でした」


「そうですか」


 リンデが茶を置いた。今日はすぐ出ていこうとしたが、少し止まった。


「昨日、公爵様が途中でお出になりましたね」


「家臣の急用があったそうです」


「……そうですか。今日おっしゃいましたか」


「はい」


 リンデがわずかに何かを確認するような間を置いた。「そうですか」と言って出ていった。


 アイリーンは茶を飲んだ。


(リンデは何を確認したかったのか。)


 「今日おっしゃいましたか」という問い。昨日の理由を今日説明しに来た、という事実を確認した。その反応が少し「それを知って安心したか」というような間だった。


 何かをリンデが知っていて、確認したかったのか。わからなかった。


 考えを置いた。農産物欄の組み直しに向かった。


 来期の予算書の農産物欄が実績値で埋まっていった。織物欄も同じように整えた。旧方式と新方式の橋渡しができた欄が揃ってきた。


(これが来期の予算の土台になる。)


 初めてのことだった。辺境の財務で「去年と比較できる土台」を作るのは。それが今日の一日でできた。


 昨日の「邪魔だったのか」という考えが、今日の仕事の中で遠くなった。仕事が動いた。数字が揃った。アルドリックが「やれ」と言った。「家臣の急用があった」と翌朝に告げに来た。


 それが今日のここの仕事の形だった。


 帳簿を閉じた。窓の外が夕暮れに差し掛かっていた。辺境の春の夕暮れが長い。まだ明るかった。その明るい時間の中で、今日の仕事がひとつ終わった。


 昨夜揺れた軸が、今日の仕事の中で静かに元の位置に戻っていた。

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