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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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第四十一話 今日はもういい

 翌日の午後、財務棟で来期の予算書の草案を並べていた。


 アルドリックが来ていた。今日は朝から書類を持ってきていた。収入側の見込み数字を確認していた。アイリーンが集計した前年度の実績と、今年の試算を並べて比較する作業だった。


 二人で別々の書類を手に取り、数字を確認する時間が続いた。財務棟にいる時間が今日は長かった。


「この項目なんですが」


 アイリーンが手を止めずに話し始めた。


「農産物の越境取引、前年比で組むよりも今年の実績値を使った方が精度が上がります。今年の記録方式の変更で捕捉できるようになった取引があるので、前年比で計算すると今期の取引量を低く見積もります」


 アルドリックが書類から目を上げた。


「どのくらい低くなるか」


「前年比では約百十万ターレルになりますが、実績値では百三十万前後になると試算されます。差が二十万ターレルほどあります」


「なぜその差が出る」


「旧記録方式で「その他」に入っていた取引が今年から正確に分類されたためです。前年の数字には分類されていない分が含まれていないので、前年比で計算すると今年の実態より小さくなります」


 アルドリックが少し頷いた。書類に目を戻した。


 アイリーンは説明を続けようとした。前年比の問題は農産物だけではなかった。織物取引についても同様の差異があった。


「また、織物については——」


「……今日はもういい」


 アルドリックが立ち上がった。書類を持ったまま、アイリーンを見なかった。


「……わかりました」


 アイリーンは立って一礼した。アルドリックが「ああ」と短く言って、出ていった。


 扉が閉まった。


 アイリーンは机の上の書類を整えた。手を動かしながら、今の説明を頭の中で確認した。


(何か余計なことを言ったか。)


 農産物の前年比の話だった。実績値を使う方が精度が上がる、という説明だった。正確な説明だった。数字の根拠もあった。問題があるとすれば、説明が長すぎたか、あるいは——


(邪魔だったのか。)


 その言葉が来た瞬間、手が少し止まった。


「邪魔」。説明の途中に「今日はもういい」と言われた。理由の説明がなかった。ただ立ち上がって出ていった。


 侯爵家でも、こういう日があった。


(——ロランが。)


 記憶が来た。帳簿の説明をしていた日、突然「もういいよ」と言われた日。「説明が長い」と言われた日。「そこまで詳しくなくていい」と言われた日。そのたびに「何かわずらわしいことを言ってしまった」という既視感があった。


 今日の「今日はもういい」が、その記憶に重なった。


 書類を揃え終えた。机の上が片付いた。手の動きが、自分で気づくより少し遅かった。


 「仕事として正確な説明だった」という事実は変わらなかった。数字の根拠があった。正しい指摘だった。それはわかっていた。


 しかし「邪魔だったのか」という考えが、静かに残った。


 窓の外が夕方になっていた。今日はこれ以上の作業が難しい気がした。しかし帳簿を開いた。数字を追い始めた。手を動かした。


 手を動かしていれば、「邪魔だったのか」という考えが遠くなった。少しだけ。


   *


 夜、部屋に戻っても、今日の「今日はもういい」が頭から離れなかった。


 寝台の端に腰かけて、少しの間考えた。


 「邪魔だったのか」という考えを、仕事の事実として検証してみた。


 説明していた内容:農産物の前年比と実績値の差。正しい指摘だった。数字の根拠があった。精度の向上につながる変更だった。間違いはなかった。


 説明の途中で「今日はもういい」と言われた。理由はなかった。


 「今日はもういい」の解釈はいくつかあった。「今日の時間が来た」という理由かもしれなかった。「別の用事が入った」という理由かもしれなかった。「説明が余計だった」という理由かもしれなかった。


(どれかはわからない。)


 しかし「どれかはわからない」という事実があるにもかかわらず、「邪魔だったのか」という方向に考えが向いた。なぜか。


 侯爵家での八年間の記憶が、そちらに引っ張った。


「そこまで詳しくなくていい」と言われた日。「もういいよ」と言われた日。理由のない切り上げは、あの場所では「余計だった」という意味だった。その経験が記憶として残っていて、今日の「今日はもういい」を同じ意味として読んだ。


 しかしここは侯爵家ではなかった。


(わかっている。)


 わかっていた。ここは違う場所だった。アルドリックは仕事を「仕事として見る」人間だった。「役職と報酬は正式に出している」と言った人間だった。「続けてくれ」と言い続けた人間だった。


 それでも、「邪魔だったのか」という考えが来た。


 記憶は正確ではなかった。侯爵家の感触が、今日の出来事に重なった。重なることは止められなかった。


 燭台の炎が小さくなっていた。


 明日、仕事をする。説明を続ける。数字の根拠がある。それが続く限り、今日の「今日はもういい」の理由は関係なかった。


(仕事で判断する。)


 それが今の自分の軸だった。揺れても、そこに戻れば立てる。今夜は少し揺れた。しかし今夜だけだ。明日の朝、帳簿を開けばまた戻れる。


 燭台を消した。今日の仕事が終わった。

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