第三十九話 「なるほど」の後
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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「続けてくれ」という言葉が来て、アイリーンは帳簿に向き直った。
九月の数字に手を入れた。旧方式の「その他」分類に入っていた織物取引を整理する作業だった。秋の繁忙期のパターンが見えてきた。数字の行を一つずつ確認した。
アルドリックが動かなかった。
壁際の椅子に座って書類を開いていた。財務棟にある書類を確認するときの位置だった。しかし今日は書類のページが変わらなかった。一枚を手に持ったまま、しばらく同じページを見ていた。
(仕事がある。)
自分に言い聞かせて、数字を追った。九月の第二週と第三週に織物取引が集中していた。収穫祭の前後だった。旧方式ではすべて「その他」に入っていたものが、新方式では「織物——秋季繁忙」として分類されるようになった。
それが三月との差の主な原因だった。春は農産物取引が主で、秋は織物と農産物が重なる。だから九月が大きくなる。
(答えが出た。)
計算を一行書き足した。集計に数字を入れた。
廊下で足音がした。リンデが通りかかる音だった。扉の前で少し止まった気がした。止まってすぐ、また遠くなった。
アルドリックが書類を机に置いた。
「……今日はここまでにする」
「お疲れさまでした」
アルドリックが立ち上がった。書類を持ったままだった。アイリーンは立って一礼した。アルドリックが「ああ」と短く言って出ていった。
扉が閉まった。
(今日は早かった。)
いつもは報告の確認があってから退席する。今日は書類を見ていただけで、仕事の確認がなかった。珍しかった。
帳簿に向き直った。九月の数字が揃っていた。明日の午前にアルドリックに報告できる。それが今日の成果だった。
「数字が合う瞬間が好き」と言った言葉を、もう一度思い出した。
(仕事の話だったのに、何を話したのだろう。)
「仕事の話」だったのか、そうでなかったのか。「なぜ仕事に入り込めるのか」という問いは技術への問いではなかった。「数字が合う瞬間が好き」という答えも、仕事の説明ではなかった。自分の気持ちの話だった。
仕事の場で、気持ちの話をした。
「不思議だ」という感触があった。しかし不安ではなかった。「何かが違う」という感触だったが、嫌な感触ではなかった。
名前がつけられなかった。
アルドリックが「ページが進んでいなかった」ことも気になった。書類を一枚持ったまま、同じページを見続けていた。何かを考えていたのだろう。何を考えていたかは、わからなかった。聞く機会もなかった。
茶が冷めていた。
飲んでから帳簿を閉じた。今日の仕事が終わった。
外が夕暮れになっていた。辺境の春の夕暮れは長い。まだ明るかった。
窓の外を少し見た。仕事以外のことを考えていた。それが珍しかった。帳簿を閉じた後に残った感触の、名前がまだわからなかった。
*
夜、部屋に戻っても、今日の時間の感触が続いた。
寝台の端に腰かけて、少し天井を見た。「数字が合う瞬間が好き」と言った。侯爵家の八年間、一度も言わなかった言葉を、今日は言えた。言えたことが不思議だった。
「誰かに話したのは初めて」だと気づいた。侯爵家でも言わなかった。父への手紙にも書かなかった。「仕事が好き」という言葉は書いたが、「数字が合う瞬間が好き」という具体的な感触は書いたことがなかった。書く必要がなかったからだった。誰かに伝えるものだとは思っていなかった。
(伝えるものではない、と思っていた。)
「仕事への動機」は、問われなければ話さないものだと思っていた。問われても、「やるべきだからやっている」と答えれば十分だと思っていた。「好き」という言葉を使う必要はなかった。
しかし今日、使った。「なぜ入り込めるのか」と問われて、「好きだから」と答えた。正確に答えようとしたら、そうなった。
アルドリックが「なるほど」と言って動かなかった。書類を前にしたまま、ページが進まなかった。何かを考えていた。
(あの人は何を考えていたのか。)
「数字が合う瞬間が好き」という言葉が、アルドリックに何かとして届いたのか。届いたとして、それは何だったのか。
わからなかった。
しかし「わからない」という事実が、今は不安として来なかった。侯爵家にいた頃、「わからない」はほぼ「どうでもいい」に変換されていた。考えても意味がなかったから。ここでは「わからないが気になる」という状態で残った。
それが少し新しかった。
燭台の炎が揺れた。辺境の春の夜が静かだった。
明日、アルドリックに九月の数字の報告をする。また問いが来るかもしれない。答えられる問いなら答える。今日のような問いが来たら——また少し考えることになるだろう。
それが今の場所の仕事の形だった。問いがあって、答えがある。問いの中に「仕事の話ではないかもしれないもの」が混じり始めているが、まだわからない。
わからないままでいい、と思った。
今日の感触に名前をつけなくていい。ただ「不思議な時間だった」という事実だけを持って、眠ればよかった。明日は九月の数字の報告がある。そこから始める。問いが来たら答える。それが今の場所だった。




