表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/70

第三十八話 数字が合う瞬間が好き

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 翌朝、財務棟に入ると、昨日の問いがまだ頭の端にあった。


 「なぜ仕事に入り込めるのか」。昨日「少し待ってください」と言ってから答えを整理した。「数字に問いがあるから」という言葉が出た。しかしそれは入り口だった。


(もう少し正確に言えば。)


 帳簿を開きながら、昨日より少し深く考えた。「問いを追うから入り込む」は本当のことだったが、それだけではなかった。問いの先に、もう一つの感触があった。


 数字が合う瞬間。縦横の合計が一致する瞬間。「ここが原因だった」という答えが見えた瞬間。その瞬間だけ、何か満ちる感覚があった。


(それが好きなんだ。)


 今まで言葉にしたことがなかった。「好き」という言葉を、仕事に使ったことがなかった。「やる」「できる」「正確にする」——そういう言葉しか仕事の中に置いてこなかった。


 アルドリックが来たのは午前の半ばだった。


「昨日の続きだ」


「はい」


 アイリーンは帳簿から目を上げた。


「答えが整理できました」


「聞く」


 短く言って、アルドリックが立った。机の横ではなく、少し斜めの位置だった。少し違った立ち方だった。


「……数字が合う瞬間が好きなんです」


 声に出した。出してから、少し驚いた。「好き」という言葉が自分の口から出たことへの驚きだった。


「それが理由なんだと思います。問いを追うのも、その先に「合う瞬間」があるからで——集中するのは、その瞬間を見たいからだと思います」


 アルドリックが何も言わなかった。聞いていた。


「誰かに説明したことはありませんでしたが、それだけで十分な理由だと思っています。仕事をやめる理由にはならないので」


(何を言っているんだろう。)


 「仕事をやめる理由にはならない」という余計な一言が出た。しかしそれも本当のことだった。「好き」という理由だけで続けてきた。報酬がなくても、役職がなくても、「数字が合う瞬間」がある限り続けられた。


 アルドリックが少し動いた。帳簿の端に視線を落として、黙って何かを考えていた。


「……なるほど」


 その「なるほど」は今まで聞いてきた「なるほど」と違った。技術を理解したときの「なるほど」ではなかった。何かをそっと受け取ったときの「なるほど」だった。


 アイリーンは帳簿に視線を戻した。作業を続けようとして、手が一瞬だけ迷った。


(誰かに話したのは初めてだった。)


 侯爵家の八年間、誰にも言わなかった。言う機会がなかった。仕事の話を聞いてくれる人間がいなかった。「数字が合うのが好きだ」と言えば、不思議に思われただろう。


 ここでは言えた。


 アルドリックがまだ動かなかった。帳簿の端を見たまま、少し考えている間があった。それがいつもより長かった。


「……続けてくれ」


 ようやく言葉が来た。


「はい」


 アルドリックが扉に向かった。歩きながら一度止まりかけて、そのまま出ていった。


 扉が閉まった。


 財務棟に静けさが戻った。アイリーンは昨日の集計の続きに向かった。九月の増加が三月より大きい理由——今日の問いはそこにある。


 「数字が合う瞬間が好き」と言った言葉が、まだ口の中に残っているようだった。


 誰かに話した。


 その事実が小さく、しかし確かにあった。


 侯爵家の八年間を思い返した。財務棟で一人で帳簿を開いていた夜。誰も確認に来なかった。「この合計が合った」と思っても、それを誰かに言う相手がいなかった。「好き」という気持ちが、言葉になる機会がなかった。


 今日、言葉になった。アルドリックが聞いた。「なるほど」と言った。それだけだった。しかしそれだけで、八年間一人で持ち続けていたものが、少しだけ別の場所に置けた気がした。


(軽くなった、ということかもしれない。)


 「軽くなった」という言葉が浮かんで、少し驚いた。重かったのか、と思った。重さを感じていなかった。気づかないまま抱えていたものが、声に出した瞬間に手から離れた。そういう感触だった。


 九月の増加が三月より大きい理由を調べながら、「話してよかった」という感触が静かに続いていた。


 午後の光が窓から入ってきた。帳簿の紙が明るかった。インクが乾く音がした。


 数字を追った。問いがあった。答えの手前まで来た。もう一息のところだった。


 その「もう一息」が好きだと、今は言える気がした。誰かに聞かれれば、また答えられる気がした。


   *


 夕方、リンデが茶を持ってきた。


「今日もよく集中されていましたね」


「はい。九月の数字の理由が見えてきました」


「それは良かったです」


 リンデがいつものように茶を置いた。しかし少しの間、立っていた。


「何かありますか」


「……いえ。ただ、今日は公爵様が少し長くいらっしゃったので」


「確認がいくつかあったので」


「そうですか」


 リンデが「失礼します」と言って出ていった。少し何かを言いかけて、やめた。


 アイリーンは茶を飲んだ。今日の集計がもう一段落あった。九月の数字の増加は、旧方式で「その他」に分類されていた織物の取引が原因だった。秋は収穫祭の前後に布の取引が集中する——そういう季節パターンがあった。それが新方式では正確に「織物取引」として分類されていた。


(これが答えだった。)


 問いへの答えが出た。今日の問いが解けた。数字が合った。


 その瞬間の感触が、今日も好きだった。誰かに話したことで変わるものではなく、ただ「好き」というものがある。それが今日も確かにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ