第三十七話 なぜ仕事に入り込めるのか
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌朝、アルドリックが同じ時間帯に財務棟に来た。
アイリーンは様式設計の第二段階に入っていた。昨日組んだ集計を元に、季節変動を可視化するための比較表を作っていた。集中していたところへ扉が開いた。
「続けてくれ」
「はい」
アルドリックが机の横に立った。昨日と同じ位置だった。
(また来た。)
昨日の「長い滞在」を思い出したが、考えないことにして手を動かした。
「……昨日の続きだが」
アルドリックが言った。
アイリーンは手を止めた。「昨日の続き」という前置きは初めてだった。
「はい」
「なぜそんなに仕事に入り込めるのか」
少しの間、意味を確認した。「仕事への入り込み方」についての問いだった。技術への問いではなかった。
「……仕事に入り込む、というのはどういう意味でしょうか」
「集中の深さのことだ。帳簿を見ているとき、他のものが目に入っていないように見える」
アルドリックが補足した。普段の短い言葉より説明が多かった。
(「帳簿を見ているとき」——観察していた。)
アイリーンは少し驚いた。「他のものが目に入っていない」という観察は、見ていなければできない言い方だった。
「それは」
答えようとして、止まった。
「仕事の効率についての問い」なら答えられた。「集中を保つための手順は何か」という問いなら答えられた。しかし「なぜそんなに入り込めるのか」という問いは、仕事の技術ではなく、自分の動機について問うていた。
自分の動機を言葉にしたことがなかった。侯爵家で誰にも聞かれなかったから、考えたことがなかった。「仕事があるからやる」という以上のことを言語化した記憶がなかった。
「……少し待ってください」
声に出た。考える時間を請うた。
「待つ」
アルドリックが短く言った。
その「待つ」という二文字が、何かとして落ちてきた。急かさない。答えが出るまで立っている。「待つ」という言葉に、それだけのことが入っていた。
(この人は——)
途中で考えを打ち消した。
代わりに答えを探した。「なぜ仕事に入り込めるのか」。なぜか。侯爵家にいた間も同じように働いていた。財務棟でも同じように集中していた。「集中しよう」という意図はなかった。ただ数字を見ていると、他のことを考える余裕がなくなっていた。
(数字が合う瞬間があるから。)
そう思った。しかしすぐに言葉にできなかった。「数字が合う瞬間が好きだから」という答えが正しいかどうかが、まだわからなかった。
アルドリックが待っていた。
財務棟の窓から春の光が入っていた。帳簿の紙が明るかった。アイリーンは自分の手を見た。インクの染みが一か所ついていた。今日の集計作業でついたものだった。
「……答えを整理しています」
「わかった」
アルドリックがそれだけ言って、また黙った。
去らずに、待っていた。
*
沈黙が少し続いた。
アイリーンは「待つ」という言葉が頭から離れないままで、答えを探した。「仕事に入り込める理由」。八年間誰にも聞かれなかったことを、今問われていた。
(なぜ、か。)
帳簿の数字を見ているとき、何を感じているか。「集中しなければ」という義務感ではなかった。「ここに何かがある」という感触が来るのだった。数字と数字の間に隙間があると、「なぜ隙間があるのか」という問いが自然に立ち上がった。隙間を埋めると、また次の隙間が見えた。それを追っていると、気づけば他のことを忘れていた。
「……数字に問いがあるからだと思います」
ようやく言葉が出た。
「問いが」
「はい。帳簿を見ていると、「なぜここが合わないのか」という問いが出てきます。その問いに答えていると、次の問いが見えてきます。それを追っているうちに、他のことが遠くなります」
アルドリックが少しの間黙っていた。
「仕事が面白いから集中するのではなく、問いを追うから入り込む、ということか」
「……そうかもしれません。「面白い」という意識より先に、「次がある」という感触があります」
「次が」
「問いの次です。答えが出ると、また新しい問いが見えます。それを追っていると終わりが遠いです」
アルドリックが帳簿を見た。
「今日の作業にも、問いがあるか」
「あります。旧方式と新方式の数字を並べると、九月の増加が三月より大きい理由がまだわかっていません。それを今日の午後に確認したいと思っていました」
「……秋に何かある」
「越境商人の動きに、秋は春より取引の種類が増える季節パターンがあります。旧方式では「その他」に入れていた分が新方式では分類されたため、差が大きく出ている可能性があります」
「確認できるか」
「今日か明日には」
アルドリックが「そうか」と言った。それから少しの間、アイリーンを見た。見られているとわかったが、目を合わせなかった。
「……答えてくれた」
その一言が静かに来た。
(答えられた、ということか。)
「待っていただいたので」
素直に出た言葉だった。
アルドリックが短く頷いた。「続けてくれ」と言って立ち上がった。今日は「なるほど」でも「わかった」でもなく、「答えてくれた」だった。
扉が閉まった。
アイリーンは比較表に向き直った。九月の数字が三月より大きい理由。それが今日の問いだった。
(この人は待ってくれた。)
その事実が、静かに残った。すぐに打ち消そうとしたが、消えなかった。仕事に向かいながら、「待つ」という言葉の温度が、しばらく頭の端にあった。




