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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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36/70

第三十六話 どの順に見るのか

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 翌週の半ば、アイリーンは税収の年間集計を組んでいた。


 新しい様式に合わせた集計だった。春から秋にかけての取引量を月ごとに並べ直し、旧方式の数字と比較できる形に整える作業だった。集中を要した。数字を一列ずつ確認しながら、誤差が出ていないかを手で追った。


 扉が開いた。アルドリックが入ってきた。


「続けてくれ」


 声をかけながら、机の横に立った。アイリーンは手を止めずに答えた。


「はい」


 アルドリックがしばらく黙っていた。いつもは帳簿の数字を確認してすぐ出ていく。今日は動かなかった。


「……数字を組む順番は、どの順に見るのか」


 珍しい問いだった。作業の手順への質問だった。


「収入側から組んでいます。収入の集計を先に固定してから、支出との差額を確認する順番です」


「なぜ収入からか」


「収入は変動の範囲が比較的読みやすいので、誤差に気づきやすいのです。支出から先に組むと、収入の誤差を後から発見したときに全体をやり直すことになります」


「……それだけか」


 少し間があった。「仕事の確認」としては、奇妙な問い方だった。


「……他に何かありますか」


 アイリーンは手を止めて顔を上げた。アルドリックが帳簿を見ていた。帳簿の数字ではなく、アイリーンの手元を見ているような気がした。


「いや」


 それだけだった。アルドリックがもう一度帳簿に目を落とした。


「続けてくれ」


「はい」


 アイリーンは作業に戻った。しばらく沈黙が続いた。アルドリックが動かないまま、アイリーンの作業を黙って見ていた。


「……集計を手で追っているが、頭の中でも計算しているか」


「はい。手で書きながら、合計を頭で確認しています。ずれが出たときにすぐ気づけます」


「同時か」


「慣れると同時にできます。最初は一列ずつですが」


「……なるほど」


 その「なるほど」は、今までのものと少し違った。技術的な確認ではなく、何かを理解したような間があった。アルドリックが少しの間黙って、それから「わかった」と言って立ち上がった。


「続けてくれ」


「はい」


 扉が閉まった。


(今日は少し、長かった。)


 「それだけか」という問いが頭に残った。「収入から組む理由」の説明をした後、「それだけか」という問いが来た。「他に理由があるか」という確認だったのか。「それだけ」で「十分か」という確認だったのか。


 どちらでもないような気もした。


 仕事の確認としては少し奇妙な問いだった。しかし奇妙というほどでもなかった。ただ「何かを確認したかったのだろう」という以上のことがわからなかった。


 手元の集計に戻った。


 数字を追いながら、「なるほど」という言葉の間をもう一度思い出した。しかしそれ以上考えることをやめた。


(仕事の確認だった。それだけだ。)


 自分にそう言い聞かせた。しかし何かが引っかかったまま、今日の集計作業が終わった。


 リンデが夕方、茶を持ってきた。


「今日も公爵様がいらっしゃいましたね」


「はい。いくつか確認がありましたので」


「そうですか」


 リンデが静かに茶を置いた。何かを言いかけて、やめた。


 アイリーンは茶を受け取った。


 集計の最終確認に入った。春から秋にかけての月次データが縦に並んでいた。三月と九月が突出して大きい。それは試験運用の結果と一致していた。旧方式では埋もれていた数字が、新方式によって初めて正確な形を持った。


(この数字が、来年の予算立案に使われる。)


 初めてのことだった。辺境で「去年と比較できる数字」を作るのは。前任者が整理した形跡はなかった。記録はあっても、比較する基準がなかった。


 今日組み終えた集計が、その基準の最初の一枚になる。


 茶を飲みながら、「それだけか」という問いを再び思い出した。


 技術的な問いとして受け取れば、答えは「それだけです」だった。収入から組む理由は説明した。それで完結していた。しかし「それだけか」という問い方には、何か別のものを探っているような響きがあった。


(気のせいかもしれない。)


 しかし気のせいとして片付けにくい何かが残った。アルドリックが財務棟を出ずにいた時間が、今日は少し長かった。「続けてくれ」と言いながら、立っていた。それが通常の確認の時間より長かったことは、アイリーンにはわかった。


 しかし「なぜ」は、わからなかった。


 翌日も仕事があった。翌日の報告書を準備しなければならなかった。様式設計の第二段階に入る予定だった。今日確認が終わったデータを、明日の朝からの作業に引き継ぐ。


(それが今夜の仕事だ。)


 「なぜ長くいたのか」という問いは、仕事の区切りが来たときに自然に消えた。


 今日の数字はきれいに揃っていた。それが今日確かなことだった。明日も数字に向かう。アルドリックが「続けてくれ」と言っている。それが続いている。


 リンデの足音が廊下を遠くなった。財務棟に静けさが戻った。


 帳簿を閉じた。今日の仕事が終わった。


 「どの順に見るのか」という問いが最後にもう一度頭に来た。明日、またアルドリックが来るかどうかはわからない。しかし来れば、また問いがある。それが今のここの仕事の形だった。

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