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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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35/70

第三十五話 数字通りだ

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 翌週の朝、アルドリックが財務棟に来た。


 珍しい時間だった。午前の早い時間、アイリーンがまだ当日の帳簿を開いたばかりの頃だった。


「報告があるか」


「あります。少しよろしいですか」


「聞く」


 アルドリックが机の前に立った。アイリーンは昨日仕上げた進捗報告書を手に取った。


「越境商人への新記録方式の全面展開から二週間が経過しました。把握できた取引量の変化を数字にまとめています」


 報告書を広げた。


「旧方式では月次で確認できていた越境取引の総額が百二十万ターレルでした。新方式では百五十六万ターレルです。三十パーセントの増加は試験運用通りです。この差額が五年以上続いていたとすれば、累計では相当な規模になります」


「精度の変化は」


「記録の誤記が試験期間中は二件ありましたが、全面展開後はゼロです。商人が記録の手順に慣れています」


 アルドリックが報告書を受け取って確認した。数字の行を指でたどりながら読んだ。短い沈黙があった。


「……数字通りだ」


 その言葉が来た瞬間、胸の中で何かが静かに落ち着いた。


(予測通りだった。)


 改革案を書いたとき、「こういう数字になるはずだ」と計算した。試験運用で確認した。全面展開で裏付けた。三つの段階を経て出てきた数字を「数字通りだ」と言われた。予測の精度への評価だった。


「次の段階に入りたいと思っています」


「次は」


「税収の季節変動の精度改善です。現在の記録では月次の集計が不均一で、春と秋の最繁忙期に過去の数字との比較ができません。比較基準となる様式を作れば、今後の予算立案精度が上がります」


「どのくらいかかる」


「様式の設計に一週間、試験的な記録照合に二週間、合計三週間で基礎データが揃います」


「やれ」


 短い承認だった。それで十分だった。


「はい」


 アルドリックが報告書を机に戻した。もう一度数字を見た。


「三十パーセントというのは、最初から予測していた数字か」


「改革案の覚書に書いた試算と一致しています。五年分の蓄積があれば、もう少し大きくなる可能性もあります」


「覚書の試算と一致した」


「はい」


 また短い沈黙があった。アルドリックが「わかった」と言って立ち上がった。


「続けてくれ」


「はい」


 扉に向かいかけて、一度振り向いた。


「昨日の報告よりも精度が上がっている」


「はい。一週間で追加のデータが揃ったので」


 アルドリックが短く頷いた。それだけで出ていった。


 財務棟に静けさが戻った。


(言ってくれた。)


 「数字通りだ」という言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。侯爵家での八年間、「よくできた」という言葉を聞いたことがなかった。帳簿を整えても、税収計算を仕上げても、誰も確認に来なかった。「できて当然」でも「よくできた」でもなく、ただ無言だった。


 ここでは問いが来る。報告書を読む。「数字通りだ」と言う。


 それだけで、この場所の温度が変わった。


 リンデが廊下から少し顔を出した。


「何か要りますか」


「いいえ。ありがとうございます」


「……公爵様が財務棟に直接いらっしゃいましたね」


「はい。報告があったので」


 リンデが「そうですか」と言って引き下がった。何かを考えているような間があったが、それ以上は言わなかった。


 アイリーンは次の段階の様式設計に向かった。


 比較基準を作る。春と秋の繁忙期の数字を統一した枠に入れる。三週間で基礎データが揃う。そこまでできれば、年間の予算立案に使える数字が初めて揃う。辺境の財務が、過去との比較ができる状態になる。


 覚書を書いたときから、この段階まで来ることは予測していた。しかし予測と実現は違う。数字が実際に動いて、「三十パーセント」という目に見える形になった。


(それが今日確認された。)


 報告書を書き直す必要はなかった。「数字通りだ」という一言で、すべての確認が終わった。


 様式の草案を紙に書き始めた。縦軸に月、横軸に商人名と取引種別。春と秋の繁忙期には欄を追加する。旧方式との照合ができるように、取引日と商会名を共通フィールドとして設ける。


 設計の細部を考えながら、昨夜の仕事のことを少し思い出した。昨日の夜遅くまで追加データの整理をしていた。「明日の報告に間に合わせたい」という気持ちだけがあった。それが今朝の「精度が上がっている」という言葉につながった。


(気づいていた。)


 アルドリックが「昨日の報告よりも精度が上がっている」と言ったとき、昨夜の残業を知っているわけがなかった。数字の精度が上がっていることを、数字から読んだ。それだけだった。しかし「読んだ」という事実が、仕事が見えているということだった。


 侯爵家では誰も数字を読まなかった。精度が上がっても下がっても、誰も確認しなかった。


 ここでは読む人がいる。


 その違いが静かに大きかった。


(ここに仕事がある。続けられる。)


 その確信が、今日の「数字通りだ」という一言でさらに深くなった。


 帳簿を開いた。様式設計の続きに向かった。三週間後に基礎データが揃う。その先に、辺境の財務が初めてきちんと動く日がある。それを静かに見越しながら、今日の仕事を始めた。

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