第三十四話 始まった
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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翌日、財務棟で仕事をしながら、頭の隅に侯爵家のことが静かにあった。
「給与支払いが遅れている」という話。
引継書の第一項目に書いたことだった。「月次の集計を二週間以内に締めること」——なぜそれが必要かも書いた。収穫期の集計が遅れれば予備費の計算に影響が出る。予備費が狂えば翌月の家臣給与に食い込む。その連鎖を防ぐための手順を、具体的に書いた。
それが機能しなかった。
(なぜかは、わからない。)
引継書を理解できなかったのか。手順を実行しなかったのか。あるいはそれ以前の問題——帳簿を読める人間がいなかったのか。どれかだろう、とは思うが確認する手段がない。確認する必要もなかった。
財務棟の帳簿に向き直した。
辺境の越境商人の試験運用報告書が机の上にあった。昨日完成したものだ。今日の午後にアルドリックに提出する予定だった。三十パーセントの改善。確認できる取引が増えた。この数字が積み上がっていけば、半年後の改革案全体の評価につながる。
「ここが私の仕事だ」という軸は、今日も静かにあった。
侯爵家に怒りを向ける気持ちは、今もなかった。
八年間、誠実に仕事をした。引継書を五枚書いた。帳簿に索引をつけた。次の担当者が最初の一週間で途方に暮れないように。できることを全部やって出た。その先は自分の責任ではない。
「怒りを感じるべきか」という問いを、自分に向けてみた。
(感じる必要がない。)
答えはすぐ来た。「報復」ではなく「自業自得」——それがどういう形で現れているかは今見えていないが、数字は正直だ。引継書の手順通りに動かなければ、数字に表れる。
アイリーンが今できることは、辺境の仕事を正確に続けることだった。それが「自分のいる場所」の証明でもあった。
リンデが扉を開けた。
「何かありましたか。少し考えているように見えましたので」
「いいえ。少し整理していました」
「そうですか」
リンデが廊下に引き下がる前に少しだけ言った。「父上からのお手紙の後、いつも少し静かになりますね」と。
アイリーンは少し驚いた。リンデがそういうことを観察していたのかと思った。
「……そうかもしれません」
「良い意味で、ということですが」
「はい」
リンデが出ていった。
「良い意味で静かになる」という観察が、なぜか少し心地よかった。「感情的に混乱している」ではなく「整理している」という読み方だった。
報告書を手に取った。
午後にアルドリックのところへ持っていく。「三十パーセントの改善」という数字を、彼がどう見るか。「数字通りだ」と言われるかもしれない。そう言われることを、今では静かに期待している自分がいた。
侯爵家のことが頭の片隅で静かになった。
辺境の仕事が、前に来た。それでいい。それが今の場所だった。
*
午後の報告の時間になった。
執務室に入ると、アルドリックが机の前に立っていた。アイリーンが報告書を差し出すと、受け取って開いた。
「試験運用の結果です。三十パーセントの改善が見られました」
アルドリックが数字を確認した。静かに読んでいた。
「三十パーセントというのは」
「新しい記録方式で把握できる越境取引の量が、旧方式と比べて三十パーセント増えました。旧方式で「その他」に入っていた取引が、正しく分類されるようになっています」
「この差額が毎年あったということか」
「五年以上続いていたと推計されます。正確な計算は来期のデータが揃ってからになります」
アルドリックが報告書を机に置いた。少しの間、数字を見ていた。
「商人の反応は」
「三名全員、協力的でした。記録の手間は増えましたが、課税の根拠が明確になるため、商人の側にも利点があります」
「どういう利点だ」
「申告の誤りが起きたとき、記録が明確であれば修正が容易です。以前は誤りが起きても根拠がなくて修正できない場合がありました」
アルドリックが短く頷いた。
「続けてくれ」
「はい。来期は全商人に新方式を展開する予定です。三名の結果を参考にして、様式を少し改訂しました」
「改訂した理由は」
「記入欄の配置が不明確な部分があったので」
「見せろ」
アイリーンは改訂した様式を取り出した。アルドリックが受け取って確認した。
「……これが改善点か」
「はい。商人が書きやすい順番に並べ直しました。人間は左から右、上から下という順番で書くので、それに合わせています」
「なるほど」
珍しく、「なるほど」という言葉が来た。「わかった」でも「そうか」でもなく、「なるほど」だった。何かを理解したときの言葉だった。
報告が終わった。アルドリックが「数字通りだ」と言った。
それだけで十分だった。
執務室を出ながら、「今日も確認しに来てくれた」という感触があった。問いがあって、答えがあって、「続けてくれ」がある。それが続いている。
侯爵家のことが遠くなっていた。辺境の仕事が近い場所にあった。
財務棟に戻ると、リンデが茶を置いて去った。アイリーンは帳簿を開いた。次の課題が静かに待っていた。今日も、ここに仕事がある。それだけが確かなことだった。




