第三十二話 問答の積み重ね
本作は全70話で完結予定です。
本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。
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財務棟での仕事は、着実に進んでいた。
六週間目に入って、帳簿の基礎整備はほぼ完成した。費目が統一され、年度別に整列し、索引もついた。空白期間の推計も形になっていた。次の段階——越境商人への新しい記録方式の試験運用が始まっていた。
アルドリックが財務棟に来る回数は、週に三回から四回になっていた。
来るたびに質問があった。
「この集計の精度はどのくらいか」「越境商人の動きに季節パターンがあると言っていたが、どの月が最も大きい」「試験運用で問題が出たか」——短い問いが続いた。アイリーンは毎回答えた。「精度は九十パーセント以上です」「春の三月と秋の九月が最も大きい動きです」「記録方式の変更には対応しています。一件だけ様式の誤記がありましたが修正済みです」。
問いと答えが、日々積み上がっていった。
それが心地よかった——と、ある朝気づいた。
(この問答が、好きだ。)
驚いた。侯爵家では誰にも聞かれなかった。確認に来る人間がいなかったから、一人で答えだけを出して黙って積み上げてきた。
ここでは問いが来る。問いが来るから、答えを整理する機会がある。答えを整理すると、自分の考えがはっきりする。それが仕事を深くしていた。
ある日の午後、アルドリックが財務棟に来て、帳簿ではなく別の質問をした。
「辺境に来る前、どういう仕事をしていたか」
珍しい聞き方だった。「仕事の内容」ではなく「どういう仕事をしていたか」という問い方だった。
「侯爵家の財務全般を管理していました。帳簿の整理から、年次予算の立案、税収の試算、家臣への給与計算まで」
「全部か」
「はい。正式な役職はありませんでしたが」
「役職なしで、そこまでやっていたのか」
「……はい」
少し間があった。
「報酬は」
「……ありませんでした」
アルドリックが少しの間、黙った。帳簿を手に持ったまま、何かを考える間があった。
「なぜそこまでやっていた」
「仕事があったからです。誰かがやらなければならない仕事が目の前にあった。やれる人間がいなかった。だからやりました」
アルドリックが「そうか」と言った。それだけだった。
しかし「そうか」の後の間が、今まで聞いてきた「そうか」と少し違った。受け取った、という感触の中に「それは不当だ」という色が薄く混じっているような気がした。気のせいかもしれなかったが。
「辺境税制の覚書は、そこで書いたのか」
「侯爵家でのことが元になっています。辺境の事例を知りたいと思っていたのが、余暇の問題として広がりました」
「余暇に書いたのか」
「はい。楽しかったので」
アルドリックが少し間を置いた。
「今もそうか」
「はい。問題を解くのが好きです」
また短い間があった。アルドリックが帳簿を机に戻した。「続けてくれ」と言って立ち上がった。
扉に向かいかけて、一度止まった。
「役職と報酬は、正式に出している」
「……はい。ありがとうございます」
それだけ言って出ていった。
アイリーンは帳簿に向かい直した。
(今日は少し、長い話になった。)
「どういう仕事をしていたか」という問いが来た。「役職なしで報酬なし」という答えが出た。アルドリックが「そうか」と言ったときの間が、少し違った。「役職と報酬は正式に出している」という最後の一言が、それへの何かだった。
言葉は少ない人だが、言葉の間が多い。
そう思った。そして今日の間には、「それは正当でなかった」という何かが入っていた気がした。
帳簿を開いた。今日の仕事に戻った。
*
その夜、部屋で父への返事を書いた。
先週届いた父の手紙への返事だった。「辺境は静かです。仕事が順調です」という近況と、「困ったことは今のところありません」という確認。父は心配しているはずだったが、余計なことを言わない人だから近況だけを書いた。
書いていて、少しだけ迷った。
「仕事が楽しい」と書くかどうか。
侯爵家にいた間、父への手紙に「楽しい」という言葉を書いた記憶がなかった。仕事はあった。達成感もあった。しかし「楽しい」という言葉を使う習慣がなかった。
書いてみた。「仕事の問いかけを受ける機会があって、楽しいと思っています」と。
書いてから、少し読み返した。自分で書いた言葉を、少し不思議に思った。「楽しい」と書いた。それが本当のことだと気づいていた。
「役職と報酬は正式に出している」という今日の言葉が、また頭に来た。
言葉が少ない人が、わざわざ最後にあの一言を言った。「侯爵家での状況は不当だった」という意味ではなかったかもしれない。しかし何かを確認したくて言った言葉だと感じた。
(この人は、仕事を正当に扱おうとしている。)
それが毎日の問答の中に一貫していた。帳簿の数字を確認しに来て、理由を聞いて、答えを受け取って、「続けてくれ」と言う。役職と報酬を書面で提示した。今日は「役職と報酬は正式に出している」と念押しした。
全部が、仕事への誠実さだった。
父への手紙を封した。
燭台の炎が揺れた。辺境の夜が静かだった。「楽しい」と書いた手紙を、明日送り出すことにした。




