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侯爵家の「なくても困らない令嬢」が本当にいなくなったら、困った人たちがいたそうです  作者: ヲワ・おわり


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31/70

第三十一話 最初から

本作は全70話で完結予定です。

本日から毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に更新予定です。

面白いと思っていただけましたら、ブックマーク・評価で応援いただけると嬉しいです。

 その夜、財務棟の片付けを続けながら、一人で考えた。


 ヨハンからの手紙。リンデが語った経緯。「最初から改革案を読んで評価していた」という事実。


 「あなたが書いたのか」——初対面のアルドリックの最初の言葉。


 あの言葉は今になって意味が変わった。覚書を「読んでいた」から出た言葉だった。「女性の令嬢がわざわざ辺境まで来た」という驚きでも、「報告書の書き方が上手い」という表面的な評価でもなかった。覚書の中身を読んで、「この問題設定の作者はこの人か」という確認の言葉だった。


(最初から、仕事で見ていた。)


 その事実が静かに根付いた。


 侯爵家での八年間を思った。「帳簿を整えてくれている令嬢」という認識。誰も帳簿の中身を読まなかった。誰も改革案のことを聞かなかった。仕事が仕事として見えていない場所だった。


 しかし改革案は、覚書という形で別の場所に届いた。そしてそこで「内容の精度と問題の把握の深さ」として評価された。侯爵家で無視されていた間も、仕事は存在していた。仕事の質は変わらなかった。


「仕事が縁を作った。」


 声に出してみた。財務棟に静かに落ちた言葉だった。


(そういうことだ。)


 八年間は無駄ではなかった。侯爵家での財務管理の経験が、辺境税制の改革案を書く素地になった。改革案が縁を作った。縁が今の場所につながった。


 一本の線が静かに繋がった気がした。感傷ではなかった。事実の確認だった。しかしその確認が、八年分の何かをそっと解くような感触を持っていた。


 リンデが廊下を通りかかった。扉の前で少し止まった。


「何かお入り用ですか」


「いいえ。少し考えていました」


 リンデが「そうですか」と短く言って、去っていった。アイリーンが「考えている」ときに余計な質問をしない——それがリンデの仕事のやり方だった。静かな理解だと思った。


   *


 その夜、執務室の明かりがまだ灯っていた。


 廊下を通りかかると、扉の下の隙間から光が漏れていた。夜の十時を過ぎていた。アイリーンも遅くまで財務棟にいたが、さらに遅い。


 少し迷った。しかし「少し伺ってもよいでしょうか」と扉をノックした。


「誰だ」


「アイリーンです」


「入れ」


 執務室はほの暗かった。机の上に帳簿が広げられていた。アルドリックが立ったまま書類を見ていた。


「夜遅くに申し訳ありません。一つ確認したいことがあって」


「なんだ」


「越境商人の取引記録に、古い様式と新しい様式が混在する期間が生じます。照合のためのキーを設けたいのですが、どの情報を使うのが最適か」


「取引日と商人の名前が固定か」


「取引日は固定ですが、商人名が年によって登録の仕方が異なる場合があります。商会名が変わっているケースが三件ほど」


 アルドリックが書類から目を上げた。「この帳簿を見るか」と言って、隣の棚から一冊引き出した。


 机の端に並べた。アイリーンが近づいて、一緒に確認した。


 並んで帳簿を見るという状況が、自然に来た。侯爵家では一度もなかった状況だった。ロランが帳簿を開いたことは、おそらく一度もなかった。


「……どこで学んだ、こういう仕事を」


 アルドリックが聞いた。書類に視線を落としたまま、独り言に近い聞き方だった。


「侯爵家で八年です」


 短く答えた。


「そうか」


 アルドリックの「そうか」には、追加の質問がなかった。「八年」という事実を受け取って、それで区切りにした。それが、「十分な答えとして受け取った」という意味だと感じた。


 帳簿の確認が終わった。


「商会名の変更があった場合、旧名と新名の両方を記録することで照合できます」


「それでいい」


「ありがとうございます」


 立ち上がって礼をした。「おやすみなさいませ」と言うと、アルドリックが「……ああ」と短く答えた。


 廊下に出て扉を閉めた。


(今夜は少し長く話した。)


 仕事の確認のつもりだった。しかし「どこで学んだ」という問いがあって、「侯爵家で八年」という答えが出た。それが今夜の会話に少し重みを加えていた。


 廊下を歩きながら、「ここでの仕事は続く」という感触が静かにあった。


   *


 翌朝、財務棟で作業をしながら、昨夜の「どこで学んだ」という問いをもう一度考えた。


 あの問いは「仕事の質への関心」から来ていた。「どういう経歴の人間か」という身分への関心ではなく、「この仕事の精度はどこから来るのか」という実務的な問いだった。


 それがわかるから、「侯爵家で八年」と答えられた。別の質問だったら、答えに詰まっていたかもしれない。


 「八年」という数字を言ったとき、何かを感じた。


 八年間の重みが一言に入っていた。しかしアルドリックは「そうか」と受け取って、それ以上を問わなかった。「八年、何をしていたのか」という確認をしなかった。「侯爵家での財務を担っていた」という事実を、一言で受け取った。


(受け取ってもらえた、という感触があった。)


 それが何を意味するか、うまく説明できなかった。しかし昨夜の「侯爵家で八年です」という言葉が、言えたことに少し驚いていた。


 侯爵家での八年を「あなたが書いたのか」という公爵の視点から確認すれば——覚書は、侯爵家での仕事の積み重ねから生まれた。覚書が縁を作った。覚書を書かせた八年間も、今の場所の一部だった。


(八年は、ここに続いていた。)


 そう考えると、侯爵家での日々の意味が少し変わった。報われなかった時間ではなく、今の場所につながってきた時間だった。


 帳簿を開いた。今日の仕事が始まる。ここに、仕事がある。それが今の確かなことだった。

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